エアケントニスの怪物:9


 
 
「みなごろし、か…」
 カカシは天井に向けて一人ごちた。
 こちらも書類を片付けながら、眠らずに彼らの帰還を待った。無事シカマル班を回収して戻った彼らは、まるで無傷だった。ただひたすらに走り続けたという疲労が多少見えるのみだったのだ。
 真っ先に顔を出したのはナルトだった。
 ナルトを残して全滅などということはないと知っていても、一瞬ひやりとする。
『他の者は?』
『あとから来ます』
 多少の返り血を浴びたらしく、ナルトから生臭い臭いが微かに漂っていた。
 任務成功の一報は届いていた。
 ヒナタ班はシカマル班を回収し、動けない者を担いでの帰還だ。ナルトは一番重傷の者を背負って先に着いたという訳だ。現場でサクラの仮処置を受けたその患者は、ナルトによって病院へ届けられている。手際は良い。他の二班は後片付けのため国境に残っている。
 時計を見る。
 東の空が白み始めていた。
『夜明け前に帰ってこれたね』
『はい』
『もう行っていいよ。準備があるだろう? 詳しい報告はヒナタとシカマルにして貰うから。良くやったな、ナルト』
『失礼します』
 ナルトは無感動にカカシを見下ろすと、型通りに一礼して姿を消した。
 これを見た時、カカシはナルトが何とかこの里に馴染んでゆけるのではないかと思ったのだ。だが、遅れて帰還したシカマルの含みを持った目に、早々に思い直す羽目になってしまった。
 ヒナタ、サクラ、木ノ葉丸の三人は、実際を見ていない。飛び抜けた速度のナルトを先行させたのは、判断としては間違いではない。しかしサクラとしては、本意ではなかっただろう。これでは監視も何もない。しかも追い付いた時には、全て終わっていたのだ。
 全て、だ。
 四方を囲まれ身動きの取れなくなったシカマル班の救出と保護、彼らの本来の任務だった密書奪還と敵陣の足止め。その全てを、ナルトの数十体の影分身が行った。重傷者の手当てをしているうちにナルトの本体が敵陣から戻ってきた。ヒナタの報告はおおまかにそんな内容だった。
『報告以外に、何か言いたかったら言って』
 一人残したシカマルにそう言えば、躊躇いつつも口を開いた。
『…違和感、スね』
『違和感? ナルトに?』
 救助された時の様子を、シカマルはそう表現した。
『敵側は、忍以外にも警備のやつらがあちこちにいたんスよ。そういうのって、ちょっと躱して武器取り上げりゃ済む話じゃないスか』
『まあ、要は一般人ってことならね』
『はあ。で…ナルトはそいつらを、こう…邪魔な枝を払うみたいに簡単に』
 殺しちまうんですよ。言葉はそう続くのだろう。
『あいつは、たぶんまるで敵なんて見てなかった。救出対象はどこかなとか、密書はどこかなとか、ちょっと山の中歩いてるだけ…みたいな』
 違和感、か。
 ナルトは自分が薙ぎ払ったものが、命あるものだと気付いていない様子だ。別の価値観とも言えない。別の次元の中で動いている。戸惑いもない。
『でもまあ、実際俺たちはそれで助かった訳っスから』
 そして他の二班が、その後始末を付けているという訳だ。彼らが戻った時に何を言われるかにもよるが、任務としては成功しているのが手に負えない。
『…もしあれで暗部の格好だったら、あれがナルトだとは誰も気付けなかったでしょうね』
 それだけです、と言ってシカマルは退室した。
 今のナルトの得体の知れない様子を『違和感』と称したのは上手いな、と思うカカシだ。ナルトとしても違和感、忍としても違和感、そして或いは、人間としても。
(そんなにサスケの監視任務の方が大事だったのかね…)
 サクラは眠らず、負傷者の治療にあたっている。恐らくは、サスケは彼女の報告を待っているだろうが、早くてもそれは夜になる。それまでサスケはナルトの監視を受け、自らはナルトの監視をするのだろう。
(みなごろし、ね)
 心の中で反復する。
 何てナルトにそぐわない言葉だろう、カカシは机に置いた写真立てを手に取る。中央にサクラ、左にサスケ、右にナルト。後方には本を片手に視線だけをこちらに向ける自分。実際には撮られていない構図、本当よりもう少し幼い三人。簡単な幻術を解けばそれは元の写真に戻る。ナルトはそれに気付かなかったし、記憶を揺すられる様子もなかった。或いは本当の写真を見せても同様だろうか。写真の中のナルトは、あからさまにサスケに対抗心を燃やしている。
 忍者らしくない忍者と言われようとも、それがナルトだったはずだ。ドタバタ忍者と言われようとも、意外性ナンバー1と称しても、ナルトは貫き通す何かを持った忍者だったはずだ。
 思い出せ、と強制しても意味はない。
 それでも、せめてもう一度同じ筋を持った忍として復帰して欲しかった。
「難しいね、どうも…」
 ため息は尽きない。
 自分が火影代理である以上、復帰を認めたナルトにいつまでも『捕虜の監視任務』だけを命じ続ける訳にはいかない。今回の救援任務もその前提で命じたものだ。
 成功だったのか、失敗だったのか。
 答えを出すには早すぎるのか、それとも手遅れなのか。
 

*     *     *

 
 本気で眠ってしまうつもりはなかった。昨晩の眠りが浅かったとはいえ、半分はナルトの様子を窺う心積もりで「寝る」と言ったのだ。
 だが、はっと気付いた時には間近に気配を感じていた。
 薄く意識を保っていたと思ったのは勘違いだっただろうかと自分を疑うほどだ。ソファで眠ったはずのナルトが目覚めた気配に、全く気付けなかった。今のナルトが気配絶ったら探すのは難しいと思うよ、カカシの声が脳裏を過る。つまり今気付けたということは、ナルトが意識的にそうさせたのだろう。サスケは無言で寝返りを打ち、ナルトに背を向けた。
「…己には、あなたが分からない」
 囁かれた声は低く、独り言のようだった。だがサスケが目覚めたことを分かった上で言っているのは間違いない。
 どういう意味だ。
 サスケは返事を戸惑った。
「己はあなたが…怖ろしい。でも、あなたを求めずにはいられない。これは己が『ナルト』だという証拠なのだろうか。あなたを追い続けたというナルトなのだろうか」
 カカシが言ったという誰もが知る事実を、ナルトは昨晩知らされたのだ。記憶をなくす、というのはどんな気分なのだろう。今更のようにサスケは思う。
「あなたをこんな目に遭わせると知っていて、己はあなたを連れ戻したのか」
 手が伸びて、枕に散るサスケの髪の先に触れた。あなたが囚われていることが我慢ならないと言った、その自分がサスケを取り戻したのだと知って、ナルトは動揺しているのだろう。
 そんなこと俺が知るか、サスケは出かかった声を飲み込んだ。里を抜けた忍が連れ戻されればどうなるのか、いくらナルトでも考えなかった訳はないはずだ。それでも諦めようとしなかったのは。
 単なる意地だ、サスケはそう思っていた。
 意地の張り合いだ。
 サスケは木ノ葉に対する未練を失っていた。それは今も変わらない。里を抜けた時に仄かに残っていた愛着も消え失せた。
 そして憎悪はくすぶり続ける。
 三ヶ月以上もの意識不明から目覚めた時、それでも時間の流れだけは感じ取っていた。復讐の二字を心に抱き、しかし死の淵を彷徨い続けたことが原因なのか、今は不思議と焦りはない。だが、それでも木ノ葉に対する憎悪は火種として残っているのも事実なのだ。
 それなら、ナルトは?
 無理矢理に連れ戻そうとしたことを、少しは思い直し悔いているのだろうか? それを、今のナルトには知る由もない。
「…あなたは、ナルトを…許したのですか」
 どうでもいい。
 許すと言っても許さないと言っても、そこにいるナルトには無関係だ。詰るべきはかつてのナルトであり、しかし積極的に記憶を取り戻させたいとも思わない。どうでもいい。ただ、サスケには今のナルトに何か引っかかるところがあって、それに記憶が関係するのであれば話は別だ。
「己は、記憶を…取り戻さなければならない。あなたは、戻らなくても困らないと言った、でも」
 声が近付く。
 ベッドが微かに軋んで、だがナルトの手は黒髪に触れるのが精一杯だ。
「あなたの裁きを受けるには…記憶が必要だ」
 裁き。
 サスケを虜囚としたことへの? サスケは笑った。とうとう根負けして、寝返りを打ち直す。不穏な何かを取り除けるのであれば、記憶など戻らなくとも、サスケには支障がない。
「犬みてえに懐いてんじゃねえよ」
「…はあ」
 恐らくは真剣に悩んでいるナルトは、笑いを含んだサスケの科白に拍子抜けしたようだ。
 ベッドの上、すぐ側に腰掛けている気配に手を伸ばせば、予想通りの場所にあるナルトの髪に触れる。はっと息を飲む様子が伝わるが、身動きはしない。人が目隠しをしているのを良いことに、いつもそうしてナルトは無遠慮に顔を覗いているのだ。
「…お前、額当てはどうした」
 あるべきものが指先に見当たらず、探るように髪を混ぜる。
「あれは…嫌いです」
 重いので、とナルトは言い訳をした。
 緊張したような声は、だが額当てをしていないことを指摘されたせいではない。昨日もそうだった、サスケは思い返す。ナルトは額、或いは頭に触れられることを極度に嫌っている。じっと耐えてサスケに触れさせるのは、恭順の印のつもりだろうか。
 忍の証でもある額当て、かつてナルトはそれに誇りを持っていたはずだろうに。姿が見えないサスケには、本当に別人のようだ、とまで感じられる。任務中には額当てをするものだと忠告すべきところだが、あいにくサスケにそんな義務はなかった。
 ふと、髪を離れた手を取られた。
 まるで大事なものでも扱うように、ナルトの触れ方はいつも丁寧だ。
 不意に、その指先に吐息がかかった。
 ナルトの手、以外の体温がそこに触れた。
 何をしている。
 幼い子供か動物にでも、甘えられているような錯覚。
「…少しは眠ったか?」
「はい」
 指を動かすと、鼻先に触れる。そこだけ少し冷えているのが、余計に犬を連想させてサスケを笑わせた。
 

*     *     *

 
 病院へ戻り、ナルトが帰ったのち、サクラが病室を訪れた。晩の検診の時にはいつもと変わらない様子だったのが、完全に押し隠していたものだとその時知れた。
「私、何の役にも立たなかった」
 ナルトの監視が主な目的で昨晩の任務に参加したサクラは、固い声で言った。
「でも、ナルトが前とは違うっていうことは、良く分かったわ」
 サスケは先ほどまでのナルトを思い返し、そういえば臨時の任務自体について、ナルトはさして関心がない様子だったと気付く。何か聞き出した方が良かったのだろうか。
「…何かやらかしたのか」
「ええ。完璧な任務の遂行をね」
 完璧な。
 それの何がいけないのか、サスケは次の言葉を待った。
 一人で、とサクラは言った。
「一人…?」
「そうよ。二小隊で制圧する手筈だった作戦を、あいつは一人で片付けちゃったの。私たちヒナタ班はシカマル班の回収がメインだったのに」
「…影分身か」
「ええ」
 沈黙が落ちる。
 作戦無視はナルトとしては珍しくない。それはそもそも作戦の詳細を全く覚える気のない表れだ。だが、今のナルトなら作戦の把握は難しくないはずだった。そして、それを実行するだけの従順さもあるはずなのだ。
「…カカシ先生が、ね」
 サクラが重い口を開く。
「サスケ君の監視任務をいつも通りやりたかったら、夜明けまでに戻ればいいって言ったのよ」
「…」
「作戦を考えると、最短でも夜明けまでに里に戻れるかどうかは微妙だったわ。カカシ先生も余計なことを言ってくれたわね。任務は成功、敵は全滅、皆殺し」
 皆殺し?
 お陰様でシカマル班に死者はなし、サクラはわざと軽い調子で言ってみせた。だがすぐに声音は変わる。
「分かってると思うけど、今のあいつはサスケ君以外には関心がないの。作戦無視して一人で先行したのも、敵を忍も一般の護衛も区別しないで一律に殺したのも、時間短縮のため。夜明けまでに里に戻るためなのよ。何とも言えないのはね、敵といえども、命を奪うことに何も感じていないってことよ。そしてたぶんサスケ君が命じれば、木ノ葉を全滅させるのだって、あいつは何も感じない」
 納得がいった。
 ナルトは臨時の任務に関心がなかった訳ではないのだ。サスケという、写輪眼を持つ人間にしか関心がないだけなのだ。昼間の忠犬のようなナルト、それが全てを物語る。
 おかしなことになっている、サスケは苦笑を浮かべた。
「あいつは一体どうなっちゃった訳? いくら記憶をなくしたからって、こんなのナルトじゃないわ」
 ようやくサスケの懸念を深刻なものとして認識したサクラは声を震わせていた。
 サスケも、ここまでとは思っていなかった。引っかかりの正体は何なのか。倫理の箍の外れた、この状態のことなのか。だが、それなら裏を返せばサスケ次第ということになる。うまくサスケがコントロールしてやればいいのだ。
 ただ、それは根本的な解決ではない。
 ナルトはサスケに従うだけの存在となる。そしてサスケを失った時、恐れるべき事態となりうる。
「ねえ、サスケ君。催眠療法って知ってる?」
「…いや」
 サクラが躊躇いがちに口を開いた。他国で最近行われるようになってきた、精神疾患やメンタルコントロールのための手法なのだという。
 脳の損傷による記憶喪失でないなら、記憶は失われたのではなくどこかに隠れている、というのが正解だ。隠された場所を自力で見つけられないのであれば、催眠療法のひとつである退行催眠によって、見つけられる可能性もあるという。最初は半信半疑だったサクラだが、今日一日かけて資料をひっくり返し、本国のあらゆる病院へ問い合わせた。
「本国では正式に認可されてないんだけど、研究している人はいたの。少しでも可能性があるなら試してみたい」
 幸いナルト本人も、記憶を取り戻すことに前向きになっている。サスケは曖昧に頷いた。
「サスケ君には、写輪眼で立ち会って欲しいんだけど…」
「俺の方は問題ねえよ」
 サクラはナルトを心配するのと同じように、サスケの心配もしている。サスケは昏く笑った。記憶が戻れば、ナルトはサクラを好きだったことも思い出す。サスケはナルトから解放される。その時というものを想像して、ため息がこぼれた。安堵とはほど遠いため息だった。それが何故かは、サスケにも分からなかった。

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