エアケントニスの怪物:10

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 催眠療法を試してみる気はあるか、という問いに、説明を受けたナルトは頷いた。本国の専門医──火国では未承認なので実際は研究医だ──を里に呼び寄せての治験という形だ。
 本来であれば、その専門医の所属する火国の病院で行われるべきものだ。が、ナルトは九尾を抱えている事情があり、万が一を恐れる火国での治験は拒否された。どのみち里からサスケを出せない状況なので、カカシとしては文句はない。
 臨時の任務に出してから一週間、結局カカシはナルトに『捕虜の監視』以外の任務を命じることはしなかった。人手不足は変わらない。だが、いくら優秀でも不穏な方向に安定しているナルトでは、いずれ疑問の声が上がることになる。手遅れでないことを祈るばかりだ。
 今のナルトは、良くも悪くも純粋だった。
 もちろん、かつてが純粋でなかったという意味ではない。まるで幼子のような、人間社会の善悪の規定をまだうまく理解できていない、そんな純粋さだ。善も悪も人が定めたもので、本来そんな線引きは不要なのかも知れない。それでも人間が集団で生きてゆくには共通の決めごとが必要で、善悪とはルールそのものなのだ。それらは、人が生まれて育ってゆく中で、自然身に付くルールだ。記憶をなくしたナルトは、そのルールを見失っている。目覚めて四週間で、しかしナルトはそのルールを未だ理解できないでいる。教え込むのは至難だ、とカカシは思う。赤子を一から育てることとは訳が違うのだ。
 今のナルトの唯一のルール、それがサスケだった。
 全ての基準がサスケにあった。
 目覚めた時は、畏れるばかりだったものを。
 ヤマトを含む上忍が一週間前と同じように病室の四隅を固める。専門医の持ち込んだリクライニングシートが中央に置かれ、ナルトはまるで眠っているようにそこに横たわっていた。その傍らの椅子には、しかしサスケではなく専門医が座っている。
 サスケはカカシとサクラに挟まれる位置に置かれた椅子に座り、その様子を見守っていた。上忍の立ち会いは、写輪眼の監視のためだ。当然サスケは手錠をしたままで、座らされているのは体調を考慮してのことではない。だが、上忍の意識は大部分がナルトに注がれていた。
 それを、カカシは憂鬱な気分で眺める。
 窓の外は明るい。
 遠く鳥の鳴く声も聞こえる。
 この病室が暗いのは、照明を落としているせいではないのだ。皆ある程度の緊張を持っている。
 そんな中で、さすがに専門医は落ち着き払っていた。世間話でもするように、無口なナルトに語りかけ、目を閉じてだのリラックスしてだのと様々な指示を静かな声で伝えていた。
 見る限り、特別なことはしていない。
 サクラ同様、カカシも半信半疑だった。
 

*     *     *

 
「君は、四週間前に意識を取り戻したんだよね」
 はい、という返事はため息のようだった。
 医者は低く柔らかい声で、ゆっくりと、何度も似たような質問と指示を繰り返している。
「それまでは、君は昏睡状態だった?」
「ずっと意識不明だったんだよね?」
「そう、力を抜いててね」
「半年間、意識不明だったんだね」
「返事は無理でなくていいんだよ」
 目を閉じて横たわるナルトだが、注視していれば、眠っていないことが分かる。閉じられた瞼の下では眼球が動いている。時折指先がぴくりと跳ねる。サスケは茶番のようだ、と眉を寄せた。
「目が覚めた時、一番始めに何を思ったか、覚えてる?」
 はい。
「何て思った?」
 助かった、と。
 ナルトは呟いた。
「助かった? 何から助かったんだろう」
 …泥。
「泥?」
 サスケは軽く目を見張った。
 泥だって?
 ナルトにもこの泥が認識できていたのか。それは今もサスケの写輪眼に映っている。カカシがサスケをちらりと見下ろした。
「君は、泥が怖いのかな」
「…泥、みたいなものの、中にいた」
 サスケは目を眇める。
 今も泥は重いうねりでナルトを取り巻いているのだ。見ていると、このままナルトを浸し、引き込んでゆくのではないかとすら思う。
「中にいたのか。じゃあ、泥はたくさんあったんだね。どれくらいあったんだろう」
 ナルトは答えない。
 分からないのだろう、何しろ海のようなのだ。同じものを感じていたとするなら、それは途方もない。
「君は、目が覚めて、助かったんだね」
「…たぶん」
「じゃあ…目が覚めるまでの半年、君はずっと泥の中にいた?」
 思案するナルトは、ややあって「そうかも知れない」と答えた。サスケの目からすれば、それは今も変わらない。ナルトだけでなく、自分までも引きずられそうな、重く暗い泥。
 ふと、ナルトの気配が変わった。
 チャクラが停滞しているような感覚。ナルトは死体のように横たわっている。嫌な感覚だ、サスケはじっとナルトを見据えた。
「どうして泥の中にいたんだろう。君は分かる?」
 分からない、ナルトは答えないことでそう示す。或いは、答えないナルトは本当に眠ってでもいるようだ。医者は質問を続けた。
「君は、どうして怪我をして意識不明になったのか、知ってるのかな」
 ナルトは答えない。
「怪我は、酷かったみたいだね」
 ナルトは答えない。
 代わりにサスケは唇を噛んだ。それはサスケが負わせた怪我だ。程度で言えば、サスケの方が重傷だった。だが、サスケが意識を取り戻してもナルトは戻らなかった。ずっと泥と格闘していたのだろうか。
「怪我をした時のことは、覚えてる?」
 覚えていないだろう。いや、覚えがあったから俺に怯えたのか? サスケがそう思った瞬間だった。

「…うちはサスケ」

 ナルトが呟いた。
 ぎくりとする。それは自分の名がナルトの口から出たせいなのか、今まで閉じられていた目が突然開いたせいなのか。
「うちはサスケ? 彼がそこにいたの?」
 ナルトは半眼でただまっすぐ天井を見ている。いや、見てはいないのかも知れない。
 医者がサスケを見て、そしてカカシを見る。今日の診療は様子見のようなもので、徐々にナルトを催眠に慣らしてゆくのが目的だったはずだ。続行するのか、しないのか?
 カカシは医者に頷いた。
 続行だ。
 サスケは写輪眼のまま、様子を見守った。
「彼は何をしてた?」
 ナルトの唇が微かに動くが、言葉は出てこない。医者はゆったりとしたペースを崩さずに、ナルトに問い続ける。
「君は何をしていたんだろう?」
 その緩やかなペースで記憶を探っているらしいナルトが、ようやく答えた。
「…帰れ、と…」
「帰れ?」
「言われて」
 何だって? サスケは自分の記憶の方を疑った。そんなことは言った覚えがない。半分口を開けたままナルトを見つめる。
「あたま…を…、押さえつけ、られて…」
 何だって?
「そこにいろ、と」
 帰れ。
 そこにいろ。
 矛盾する言葉に、だがサスケはようやく心当たりを思い出した。
 その時、不意に泥の嵩が増した。ナルトを中心に渦巻く重い泥は、写輪眼を開いた時から見えている。それは病室を埋め尽くし、当然サスケやサクラ、立ち会いの上忍をも浸していた。部屋を突き通して果ては見えない、その泥が。
 座る自分の胸元すらも圧迫するようにせり上がっている。
 唐突に腐臭が鼻を突いた。
「う…ッ、」
 目の前の泥の正体に気付く。
 どす黒く腐った血と肉だ。それがどろどろと渦巻いていたのだ。サスケは思わず口を押さえて立ち上がった。がちゃ、と手錠が鳴り、椅子に足を取られる。
「サスケ君?」
 どうしたの、よろめく体を支えたサクラが小さく問う。だがサスケは答えられなかった。立ち上がる自分の体をずるずると伝い落ちる泥、こみ上げる吐き気を何とか押し戻す。
 ナルトを見る。
 泥に漂うかのように横たわったナルト、その目が静かにサスケに向けられた。
「お前、そうか、お前は」
 ああ、そうだったのか。

 ナルトじゃなかったのか。

 良く思い返せば答えは出ていた。まるで別人だ、ナルトじゃねえな、あれは己じゃない。そうだ、それがそのまま答えだった。泥は記憶だ。流された血と刻まれた肉、見てきたもの、引き起こしたもの。どこから発生したものなのか? それにナルトが身を浸している訳ではない。それはナルトから溢れ流れ出たものなのだ。ナルトは腐った血肉の記憶に溺れかけていたのだ。
 サスケは半分サクラに縋るように掴まり、ナルトを見た、ナルトの目を見た。澄んだ青が血に濁るように赤く染まった。

 待ってろ、今そっちに行く。
 サスケは写輪眼に意識を集中させると、泥の中にダイブした。

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