ゲシュタルトロス・フクス:3


 
 
 引き出し方が分からなくなった、と。
「ナルトが? 言ったのか?」
「はい。最初は、九尾のチャクラを使うことをためらっているのかと思ったんですけど」
 大惨事を引き起こしかけた訳ですからね、とヤマトは腕を差し組んだ。カカシはベッドに腰掛け、壁に凭れるヤマトを見上げた。
「どうも、感触が違うらしくて…。まあ、色々ありましたし封印も外れかかってるし、今は無理せず九尾のチャクラを使うことは考えるな、と言ってあります」
「んー、そうだな…」
 感触が違う?
「どう思います?」
 封印が剥がれかかっているのなら、普段より簡単に九尾のチャクラが流出するのではないのか。
「…引き出し方が分からないっていうのが、ちょっとおかしな感じだね」
「ですよね…」
「サスケに言わせれば、ナルトの記憶喪失も封印が剥がれかかってるせいってことだけど」
 それを疑っていることは、カカシは口には出さなかった。が、ヤマトの方は察したようだ。
「九尾を押し戻したことと、何か関係があるんですかね」
「無関係ってことはないんじゃない」
「ま、とりあえずの報告ですよ。この件で問題がある訳じゃないし、報告書に載せるほどでもない。ただ…ホラ、記憶喪失中のアレで…ナルトの動向を気にしてる上忍もいますから」
 アレとは、サスケが囚われていることが我慢ならないと言ったことだ。脱獄を示唆し、自らも里抜けを厭わないと言ったことだ。
 ナルトは記憶喪失だった間のことを覚えていない。だがそれを疑う人間もいるのだ。特に、あの場に居合わせた上忍が警戒するのも無理はない。カカシはベッドに横になると、深呼吸のふりでため息をついた。
「九尾の問題はデリケートだ。何かあったら、また教えてよ」
「ええ、承知してます。お邪魔してすみませんでした、先輩。どうぞごゆっくり」
 ヤマトは苦笑して仮眠室の照明を落とし、するりと退室した。
 すぐにしんとする仮眠室で、カカシは暗い天井を見つめる。火影代理としてすべきことが山積みで、ナルトとサスケに割く時間も心の余裕も少なくなっているのが気がかりだ。理性で優先順位を付けて仕事をこなしている。だが、真に優先すべきはナルトとサスケの件なのではないだろうか? その直感は、だが押し通すには根拠が足りない。
 そしてそれに足る根拠が示される時には、既に手遅れになっているのではないのだろうか。夜間だけは二人に暗部の監視を付けているが、それだとて、彼らが本気になれば何の意味もないのだ。
 目を閉じる。
 スイッチが切れるように、カカシは入眠した。
 

*     *     *

 
 ふと目を開ける。
 いつの間に眠ったのだろう、思い出せない。彼は体を起こそうとして、その手に触れる感触に眉を顰めた。
 布の感触。
 布団だ。
 意味が分からない。
 上半身を慎重に起こし、暗闇の中で目を凝らす。覚えのある場所だ。ひと月ほどを過ごした、アパートの一室だった。
(…ナルトの部屋)
 じわりと冷や汗が滲む。ベッドの上から見回せば、生活の痕跡がそこかしこに残されている。それは彼がここで生活していた頃とはまるで違う痕跡だ。雑多で乱雑、それは『ナルト』の痕跡なのだ。
(何故)
 彼は静かに狼狽した。
 ここにいてはならない。あそこにいなければいけない。
(己はあそこを出たはずはない…)
 それはサスケに命じられたことなのだ、彼が自分の勝手であの檻を出ることなどありえない。
 なのに何故、自分はここにいるのか。『ナルト』はどこにいるのか。不安に握り締めた拳を開き、掌を見つめる。彼は、どうしたらあそこに戻れるのか、その術を知らないのだ。
(…サスケ)
 これがサスケに知れたら、どう思われるだろう。結果として、彼に従わなかったということになってしまうのだ。叱責されるならまだいい。落胆されたらたまらない、彼はナルトの姿を探した。
 だが、元々これが『ナルト』なのだ。
 この体が『ナルト』なのだ。
 彼はナルトの封印式を通した先の檻にいた。自分の意識が、封印を通してナルトの体を操っている状態なのだ。成り代わっている、と言ってもいいのだろう。
 では、ナルトはどこにいるのか。
 泥に漂い眠っていた時のように、あの檻に、自分の代わりにあの檻にいるのだろうか。どうしたらいいのか分からない。あの時は、サスケの写輪眼であの場所へ引き戻されたのだ。
 戻るには、またサスケを頼らなければならないのだろうか。だが頼るとなれば、自分が檻から出たことを知らせる結果となる。
 それは、怖い。
 何とか自分の力だけで戻れないものか。彼はあの時を思い起こし、退行催眠の状態を再現できないかと試みた。体をリラックスさせ、目を閉じ、しかし眠ってしまわない状態だ。ゆっくりと深呼吸をし、余計なことは考えず、心も意識も凪の状態へ導く。
 だが、焦りが先に立つ。
 何度繰り返しても、専門医が誘導したようにはならない。いや、そもそも退行催眠は、失った記憶を取り戻すための治療法なのだ。これが成功しても、自力であの檻に帰る手だてが見つかるかは、別の問題だ。
(…サスケ)
 やはり、サスケの写輪眼を頼るしか、ないのか。
 時計を見る。02:30を示している。深夜であり、人の目には付きにくい。それは好都合だ。彼は、目を閉じサスケを思い描いた。檻の中で笑っていたサスケを。
 ぐん、と牢のイメージが広がる。
 引くと、堅牢な監舎を見上げる映像。更に引くと、そこへ至る道がざあっと脳裏に再現される。それは『ナルト』の記憶だろう。簡単に身繕いすると、彼は静かにアパートを抜け出した。


 気配は、唐突に現れた。
 地下では時間の経過が分かりにくい。だが今は深夜のはずだ、サスケは粗末なベッドの上で、首だけを鉄格子の方向へ向けた。ちち、と微かな金属の音。次いで鉄柵が開いたことが、空気の流れで伝わった。
 判決を待てない輩の刺客か、と一瞬疑うが、それならわざわざ檻を開ける必要はない。毒を塗ったクナイのひとつも投げればいい。写輪眼を狙う他国の忍か? だとしたら、目を抉ってゆくだけならいいが、研究対象として誘拐されることは避けたい。そう思った時、聞き慣れた声が耳元の空気を震わせた。
「…サスケ」
 ナルト?
 いや、それにしては。

「己です」

 助けて下さい、困惑したような囁きが聞こえた。
「どうした」
「分からない、のです。気が付いたら、こうなっていて…その、どうやったら戻れるのか…」
 気が付いたら?
 サスケは僅かに眉間を寄せた。まずい、と瞬間的に思う。他の人間からすれば、九尾が表に出ている状態が、記憶喪失のナルトなのだ。九尾を檻に戻してどれくらい経つだろう? 今更再び記憶喪失に陥るというのは不自然に過ぎる。
「…ナルトは」
 小さく問うと、彼は「分かりません」と低く呟いた。恐らくは項垂れているのだろう。
「お前は、檻を出たつもりはねえんだな」
「はい」
「原因はナルトか…」
 封印が外れかかっているせいもあるだろうし、九尾が記憶喪失で檻が檻として機能していないせいもあるだろう。だが、それで今までは問題なかったのだ。
 今、包帯を解いて彼を檻に戻すことは不可能ではない。だが彼を戻し、ナルトを呼び戻して、それをどう説明するのか。どうやってか牢へ忍び込んだこの状態を。騒ぎになることは間違いない。
「…お前、どうやってここに忍び込んだ? 看守がいただろう」
 看守だけではない。敷地の門には門番が、監舎の入り口には受付の人間がいる。それぞれがただの忍ではない。それなりに腕の立つ者のはずだ。
「あの…ちょっと、眠って貰いました」
「…」
「…殺してはいません」
 殺していたら大ごとだ、今頃とうに『ナルト』は逮捕されている。サスケはため息をつく。
 だが、どのみちここまで来てしまったものは仕方がない。それに、サスケを頼らずそのまま朝を迎えれば『ナルト』の様子がおかしいと気付かれてしまうことを考えれば、彼の判断はあながち間違いでもない。
「…お前、ナルトの真似事は出来るか」
「は…、」
 彼は少し考えてから、「たぶん」と答えた。
「朝になってもそのままだったら、ナルトのふりでしらを切れ」
「…はい」
 ここへ侵入したことは、遅かれ早かれカカシを含む上層部に知れる。それならば、『ナルト』の様子がおかしいという口実で写輪眼を開くことも可能だろう。その作業は、今ここで密やかに行われるべきではない。
 あの、と遠慮がちな声が聞こえた。
「…己は、ここにいても…?」
「ああ。眠れるなら寝ろ」
 はい、という吐息のような返事は、安堵を含んで耳に届く。
 とさり、と軽い振動が伝わる。サスケの頭のすぐ側で、ベッドに凭れたのだろう。じゃら、と鎖を引きずって手を伸ばせば、覗く金髪に触れる。掌の下でくるりと頭が動いた。サスケはうっかり笑った。そうしていれば、それはナルトではなく獣だ。まだ幼い狐だった。
「…サスケ」
 写輪眼は九尾を懐柔する。
 想像とはずいぶん違ってしまった。
 手を離すと、それを彼に握られる。指先が冷えていて、今の今まで彼が緊張を強いられていたことが窺えた。
「サスケ…」
 取られた手が、恐らくは彼の額に押し当てられる。指先に髪が軽く触れた。
「…あなたの、目を…見たい」
「またそれか」
 ふん、と笑ってサスケは触れる彼の額を軽く押す。拒否したことは、正確に彼に伝わった。
 だが、手は解放されない。
「…ナルトは、ずるい」
「何?」
「あなたの名を呼べば───あなたに名を呼んで貰える」
「…」
 妖狐とは、彼の素性だ。九尾とは、見たままの特徴を表しているに過ぎない。ナルトを『木ノ葉の忍者』または『金髪』と呼ぶようなものだ。
 名を、呼んで欲しいのか。
 一人であれば、名前など意味を持たない。
 だが、孤独であるなら、それは酷く重いのだ。他者からその名を呼ばれない限り、軽くはならないものだ。
「…お前をどう呼ぶ。俺はお前の名を知らねえんだ」
 彼の沈黙は長かった。
 そもそも彼に名があるのかどうかも、サスケは知らない。沈黙は諦めを意味するのかと思った時、彼が声を震わせた。
「…名を、下さい」
 何だって?
 サスケは僅かばかり首を動かした。
「仮に名付けろってことか?」
 いいえ、首を振る仕草が、押し当てられた額から伝わる。
「あなたが…あなただけが呼ぶ名を、己に下さい」
 まるで祈りだ、サスケは憂鬱に息を吐いた。九尾の全てを背負うつもりなどないサスケには、その願いは重い。
 だが、記憶をなくしたのはナルトではなく九尾だと、誰にも明かさなかったのはサスケだ。封印の檻を素通りする今の九尾は、サスケに従って自らの意志で檻にいる。彼を真に封印するのなら、剥がれかかっている封印の他に新たに組まなければならない。古い封印とのバランスが悪ければ、ナルトが自身のチャクラすらまともに扱えなくなる可能性もある。
 また、九尾が記憶喪失という意外な事態は、悪くすればいまだ尾獣を狙う輩の格好の的になりえる。ナルトは健在、というところを見せた方が面倒は減る。スパイはどこにでもいるものだ。サスケ一人が知っている分には漏れようもない。今も暗部は見張っているだろうが、手出しをしてこないところを見ると、この密やかな会話までは聞かれていないはずだ。夜間の見張りは最低限、とカカシも言っていた。侵入してきたのが『ナルト』だからこそ、様子を窺うに留めているのだとサスケは判断する。
(至れり尽くせり…なんだぜ、ナルト)
 苦々しげに、サスケは笑んだ。
 せっかく助けたのだ、この、自分が。

「…たゆら」

 サスケは呟いた。
 あの時の、九尾の檻の中で泥に浮かぶナルトを思い出していた。触れ合う手から、落胆が伝わる。それは名と言うには奇妙だ。ものの名称ですらなく、状態を表すもの。
 不確かに漂い、淀みに浮かぶ、あの姿。それはナルトだったが、同時に彼も、そうだった。身の置き場はなく、根となる記憶もなく、ただ泥に身を浸していた。
「不満か」
「いいえ」
 返事は、しかしはっきりと決意を持っていた。
 いいえ、その舌で確かめるようにもう一度言う。手を掴む力が僅かに強まった。ああ、と穏やかなため息がその手にかかる。
「呼んで下さい、サスケ」
「…たゆら」
 彼はサスケの手を抱き寄せた。じゃら、と鎖が重い音を立てる。その冷たい鎖ごと、彼は抱き締めた。
 彼はその時、『たゆら』となった。

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