ゲシュタルトロス・フクス:4


 
 
「うずまきナルト。起きろ」
「んー…?」
 聞き覚えのない声が冷たく響いて、ナルトは違和感に身を捩った。寝返りを打とうとした掌が石の感触を脳に伝える。
 何だ?
 体が痛い。
 しかも、寒い。
 太陽光ではない照明の下、すり寄ればあるはずの枕がないことに不快感を覚え、ナルトは本格的に目覚めた。
「…え?」
 痛いはずだ。まず目に飛び込んできたのは、石畳だった。頭は硬い石の上にあり、体は野営の時よりも凝り固まっている。
 その視線の先に、複数の足を認めてナルトは跳ね起きた。
「なっ、…何だってば…!?」
 そこには五人の男がいて、ホルスターに手をかけナルトを注視していた。格好から察するに中忍以上の忍たちだ。
 訳が分からない。
「ここで何をしている」
「へ!?」
 ここ?
 男たちの後ろに、鉄柵が見えた。はっとして周囲を見回す。
 見覚えなら、もちろんあった。
「ようやく起きたかよ、ナルト」
 頭上から降ってくる声に背後を振り向く。
「…サスケ…!?」
 ベッドの上で身を起こしたサスケが、ナルトの声にため息をついていた。


「だから、全然覚えてねえんだってばよ!」
 見覚えのある牢も、外側から見るのと内側から見るのとでは景色が違う。
 留置場に収監された覚えはないし、だからと言ってサスケの牢に忍び込む理由もない。ナルトは、何故自分がそこにいたのか説明できずにいた。カカシは心底呆れ返ったまなざしをナルトに向けている。
「…ずいぶん鮮やかだったらしいな?」
 カカシは、彼らを見張っていた暗部から報告を受けていた。
 深刻な事態、たとえばサスケを連れ出して逃げるなどという状況に至らないようであれば、ただ監視するにとどめているのが幸いした。ナルトを追った暗部はサスケを監視する暗部と合流して、様子を見ているという連絡をカカシに寄越したのだ。朝になっても抜け出す気配がないことに、カカシは仕方なく上忍を迎えに出した。
 ナルトははっきりと面会を禁じられていた訳ではない。正規の手続きを踏めば、サスケの元へゆくことは可能だった。なのに何故、深夜に留置場へ侵入しなければならなかったのか。そして露見するまで何故そこに留まり続けたのか。ナルトを迎えに行った上忍は万が一を考えて神経を尖らせたが、あまりに無防備に眠る様子に毒気を抜かれたようだった。
「鮮やかって?」
「侵入が、さ」
 そんな事情など知らないナルトは、きょとんとカカシを見つめるのみだ。
「とにかくね、お前の行為はれっきとした犯罪だから。不法侵入罪だよ、分かってる?」
「…不法侵入が犯罪だってことぐらい、俺だって知ってるってばよ。でも俺は、忍び込んだ覚えなんてねーんだってば」
「じゃあ、誰かがお前をあそこに放り込んでいったとでも言うの。残念だけど、目撃証言もあるから言い逃れは出来ないよ」
「言い逃れって!」
 ナルトは焦れて声を荒らげた。
 カカシは頭を抱えたくなる。
「あのね、サスケの話だと、気配殺して牢の中にまで侵入して、何しに来たって訊いたら『話をしたかった』って答えたらしいじゃない? それで、割とすぐ床で眠っちゃったらしいじゃない? 何しに行ったんだ、ほんとに。そんな優秀な夢遊病は聞いたことないよ」
「む、夢遊病…」
「俺だってさ、お前が嘘ついてるとは思わない。サスケもお前の様子は少しおかしかったって言ってる。ここのところ任務が立て続けだったし、疲れてるんじゃないの?」
「…別に、疲れてなんか」
 ナルトは不服に顔を歪めた。
 疲れているうちには入らない。確かに任務は休む間もなく入っているが、皆同じような状況だ。ナルトの場合は回復力が並でないということを考えれば、他の者より優位ですらある。
 それが、疲れて、夢遊病とは。
 冗談にもほどがある。
「…ナルト」
 カカシは執務机に肘をつき、ナルトを見上げた。
「サスケとの面会を禁止する」
「先生!」
「これ、今回の罰則だから。期間は、サスケの判決が下りるまで。いいな?」
「よくねえ!」
 何も知らないナルトには、理不尽な罰則だった。だん、と机に手をついてカカシと睨みあう。
「俺は本当に覚えてねえ。覚えがねえ」
「だから、それを疑っている訳じゃないんだよ。覚えているか否かじゃない。言っておくけどね、一部ではお前とサスケを近付けるのは危険だっていう声も出てる。何でだか分かるか?」
 カカシの目は憂鬱で、ナルトは不意にたじろいだ。
 俺とサスケが滅茶苦茶な戦いをしたから?
 挙げ句に二人とも意識不明の重体に陥ったから?
 二人を引き合わせて、里の中で再びあんな戦いを起こされてはたまらない、ということだろうか。指を組んで肘をつき、目の隈の酷い顔で見つめられて、疲れているのはカカシの方だとナルトはようやく気付いた。ただでさえ忙しい火影代理に、覚えのないこととは言え、余計な仕事を増やしてしまったのだ。
「…記憶喪失だったお前はね、サスケのことしか見えていなかった」
 黙ったナルトに、カカシは重い口を開いた。
「お前は…サスケがここを出たいなら、一緒に里抜けするとまで言ったんだよ」
「…え?」
 耳を、疑った。
 カカシが何を言っているのか理解するのには、ずいぶん時間がかかった。ナルトは口を開きかけたまま、ただカカシを凝視した。
「それがお前の本心なんじゃないかって、疑う奴もいるってことだ。この罰則はサスケに余計な疑いをかけないためにも有効だろう? 実際、今回のことでサスケも取り調べを受けているんだぞ」
 サスケの話だと、というカカシの引用は、その取り調べの時に聞き出したことなのだ、と今更のように気付く。
 ナルトは、首是するしかなかった。

 本当は、ナルトにだって復讐心はあったのだ。
 いわれのない迫害、と思っていたものは九尾の封印のせいだった。自分が悪い訳ではない、むしろ里のために犠牲にされたと言ってもいいだろう。なのに何故、こうも忌み嫌われなければならなかったのか。
 何も知らない頃に「火影になる」と言ったのは、火影というものに対して純粋な憧れを抱いたためではない。里の連中を見返してやるには、里のトップになるのがいいと思っただけだった。見返して、見下して、かつて自分を蔑んだ連中に頭を下げさせてやる。そんな反骨精神に過ぎなかった。
 それが、イルカと出会い、七班の仲間と出会い、人を信頼し人に信頼されるということを知り、野望は夢に変わった。
 そのナルトの根幹に、サスケがいた。
 境遇は、似ているようで違った。何も持たなかったナルト、全てを持っていたサスケ。少しずつ増えてゆくナルト、全てをなくしたサスケ。
 失った杭はあまりにも大きく、サスケは失ったものの復興と奪い去った者への復讐を見据えて、ただ一人、生きていた。七班にも決して馴染もうとはしなかった。そんな彼が、いつからだろう、仲間と認めてくれるようになったのは。あの頃、彼の心は確かにそこにあったのに。
 復讐は、正当な権利だ。
 だがナルトは復讐以上に大切なものを見つけ、その権利を放棄した。ナルトは、サスケも復讐以上に仲間が大切だと思えるようになったのだ、と感じたのだ。
 なのに、真実とやらがサスケの目に再び深淵を覗かせた。
 里は汚い。
 世界は汚い。
 でも、周りが汚ねえからって、お前まで汚れちまうことねえだろ。
 お前は綺麗だ。
 お前は純粋だ。
 妥協を知らないせいで、いつだって泥を被る。
 俺はお前の泥を払ってやりたいんだ。
 お前を泥だらけで放り出したまま、火影になっても意味がないんだ。
 俺はバカでドベで、伝えたいことのほとんどを上手く言えない。でもちゃんと表現できても、サスケには通じなかったのかも知れない。サスケはもう俺なんか見ていなかった。
 その、サスケが───。
 何故里に帰ってきてくれたのか、ナルトには分からないのだ。記憶を取り戻したという日、サスケは言った。
『お前が言ったんじゃないか』
 まるで、子供を諭すような優しげな口振りで。
『俺のいない木ノ葉で火影になっても意味がないって』
 それを受け入れたのは、負けたから、という理由だとサスケは言う。だがあの時、絶対的に優位だったのはサスケの方だ。何を言っても全く何も通じなく、また伝わることもなく。ぶつける言葉は次第に理屈を失っていった。斬り結びながら、最後はわがままのような科白ばかりが飛び出した。それでは本当に伝わらない、とただ焦った。
 半年もの間意識が戻らなかったのは、自分がもう死んだのだと勘違いしたせいだろうか。目覚めて記憶を失っていたのは、それらを思い出したくなかったせいなのだろうか。そんなはずはない、大事な思いを、記憶を、失うのは嫌だとナルトは拳を握る。
『サスケのことしか見えていなかった』
 カカシの声が耳の後ろでこだまする。
 全ての記憶を失ったはずなのに、サスケには新たに執着するのか。サスケだけに執着するのか。サスケのしたいようにさせてやりたい、それが、しがらみの何もない自分の本心なのか。
「あら、ナルト。何よ、今日は休み?」
 最近は任務で外に出ることがほとんどなくなったサクラに会うには、病院へゆけばいい。
 記憶喪失だった凡そ一ヶ月間の様子を、全く聞かなかった訳ではない。キバやヒナタ、木ノ葉丸、入院中に見舞いに来てくれた友人に聞けば、面白おかしくああだったこうだったと話してくれた。小さなミスをすれば、『記憶がない方が優秀だった』とからかわれた。カカシも茶化す材料として、当時の様子を話したこともあった。
 だが懸念を含んだ言葉は、初めてだった。
 意図的に伏せていたのだ、とナルトは直感した。
「サクラちゃん」
 何故伏せていたのか。他の皆は、恐らく知らない。
 では、サクラは?
「聞きたいことがあるんだけど」
 カカシ先生には聞きにくくて、と言うナルトを、サクラは首を傾げて促した。

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