ゲシュタルトロス・フクス:5


 
 
 出来れば二人きりで、と言うと、サクラは何を疑うこともなく空いた病室へナルトを招き入れた。
「カカシ先生には聞きにくいって、何?」
「あー、うん…。なんか先生、忙しそうだし、すげえ疲れてるしさ」
「まあ、そうね。火影代理だもの」
 ナルトがシーツの張られたベッドに腰掛けると、サクラはキャスターの付いた椅子を引いて座る。
「…今朝の話、聞いた?」
「何? 今朝の話って」
「俺、サスケの牢屋に侵入して、今朝捕まったんだってばよ」
「はあ?」
 サクラは目を丸くしたかと思うと、吹き出した。しゅんと背を丸めるナルトは、捕まったとはいえこうして自由に出歩いている。大ごとにはならなかったと理解したのだ。
「あんた、何で侵入なんか! そりゃ、確かに面会の手続きはめんどくさいかも知れないけど!」
「…覚えてねえ」
「はあ!?」
 低く呟いたナルトに、サクラはぎくりとした。
 覚えていない?
「なあ、サクラちゃん。俺、記憶喪失だった時のこと、何で覚えてねえんだろ」
「…症例では、少しずつ思い出していく人は、その間のことを綺麗さっぱり忘れちゃうことはないっていうのが多いみたい。でもあんたみたいに劇的に思い出す人は、その衝撃で忘れちゃうパターンが多いみたい。どっちにしろ、記憶喪失っていう症例自体が少ないから…人それぞれって言うしかないのかも知れないけど」
「ふうん…」
 そっか、とナルトは俯いた。
 何だか奇妙な感覚だ、とナルトは思う。記憶を失ったということを覚えていないせいで、どうにも現実感に乏しい。感覚としては、ただ眠っていたところから目覚めたに過ぎない、それだけだ。
「聞きたいことって、それ?」
「あ、そうじゃなくって…」
 ナルトは恐る恐る、サクラを窺う。
 どんなに所在なげだったか、どんなに途方に暮れていたか、そういうことは他の仲間から聞いた。そうではない、カカシの言ったおかしな状態を、サクラは知っているだろうか。
「記憶喪失の間、俺…どっか変だった?」
「変? 変って…」
 はっとしたように、サクラは言葉を切った。心当たりがあるのだ、ナルトは身を乗り出した。
「教えてくれってば。俺、記憶喪失の間にサスケに何か変なこと言ってたらしいし、サスケが今ちょっと様子がおかしいのも、もしかしたらそのせいかも知んねえし!」
「ナルト…」
 サクラが眉間をきゅっと寄せる。
「カカシ先生は、俺はサスケのことしか見えてなかったって言ってた。サスケのためなら、里抜けしてもいいとかって」
「…それだけ?」
 それだけ。
 カカシは言わなかった何かが、まだあるのだ。サクラは少し考える素振りで、天井を見上げた。


「長い意識不明から目覚めた時、あんたは怯えてた」
「俺が…?」
 小心翼々とこちらの様子を窺っていた目を思い出し、サクラは何とも言えない気分になる。
「周囲にいる私たちを警戒して、何も覚えていないことを黙ってたの」
 回復した今のナルトからは想像もつかない。ひたすらベッドの上の怪我人であり続け、肉は削げ、目は落ち窪む。そんな状態のナルトが怯える様は、助けようとするこちらが虐待でもしているかのようだったのだ。
「でも…サスケ君が来た時には、それまでの比じゃなかったわ。私たちに対してはね、おどおどしてても逃げたりはしなかったのに…サスケ君が入ってきた途端に、逃げようとしてベッドから転がり落ちたもの」
 ナルトはぽかんと口を開けた。
 自分で想像が付かないのだ。
「あんたはね、サスケ君のこと…って言うか、サスケ君の写輪眼のことは覚えてたのよ。カカシ先生が、あんたのチャクラが前と違うって言って、サスケ君にも見て貰おうとしたんだけど。それどころじゃなかったわ、あの怯え方じゃね」
 微妙な顔で、ナルトは唸った。
「ええぇ…。なんか、恥ずかしいってばよ…」
「やあね! 恥ずかしいのはこの先よ!」
 サクラまで引き攣りがちになりながら、それからをかい摘んでナルトに教えた。
 入院中に渡した忍術書とアカデミーの教本を、退院までの数日で覚えてしまったこと。退院してから二週間、サスケの監視任務に就いていたこと。その間に、緊急の援軍要請でサクラも共に任務に出たこと。
「はっきり言って、あんたは完璧だったわ。忍として非の打ちどころがなかったの」
「…別の意味で恥ずかしい!」
「もっと恥ずかしい話があるわよ。サスケ君の目を見たいって言って、カカシ先生や立ち会いの上忍の前で写輪眼見た時、『綺麗だ』って言ったんだから」
「ぎゃああ! まじで!?」
「サスケ君はドン引きで写輪眼しまっちゃって、そしたらあんた、『この色も好きだ』ですって」
「こええ! 俺こえぇ!!」
 当時のナルトを真似て言うサクラに、ナルトは耳を塞がんばかりに頭を抱えた。だが、サクラは笑わない。
「その時なのよ。サスケ君が望むなら、サスケ君を連れて里を出るって言ったのは」
「え…」
「あんたはサスケ君を怖がってた。なのに、いつの間にかサスケ君にしか関心がなくなってた。あれはほとんど崇拝ね」
 そう、崇拝だった。
 支配する者とされる者だった。
「…今だから言えるけど、サスケ君は記憶喪失のあんたが、何か変だって思ってたの。あんたを監視するために、あんたに監視任務を与えたのよ」
「え、…え? それって…俺がサスケを監視してたんじゃなくて、本当は逆だったってこと?」
 ええ、サクラは頷いた。
「始めは、気にしすぎじゃないかしらって思ったわ。でも、一緒に行った救援任務で、私…怖かった」
 任務報告は読んだ? と訊くと、ナルトは頷く。
「俺ってば大活躍だったって、シカマルたちは言ってたけど…」
 ナルトは居心地悪そうに座り直した。『けど』と言う通り、その内容には思うところがあるのだろう。
「あんたがしたこと…任務を遂行したことが怖かったんじゃない。あんたがあんたでなくなりそうで…怖くなったの」
 それからよ、臨床段階の治療法を必死で調べたのは。サクラは大きくため息を吐いた。
「まあ、結局その『治験』の時に記憶が戻ったからいいけどね」
 サクラは、サスケによってナルトが記憶を取り戻したらしいことは、あえてはっきりとは伝えなかった。毎日の検診での雑談で、どうやって記憶を引き出したのかをサスケに訊いたことがある。純粋に、医療に従事する者としての興味だった。
 だが、サスケ自身は否定しているのだ。
 記憶を失う、この場合正確に言えば『忘れる』原因を見つけ、催眠療法師の手助けをしただけだ、としかサスケは言わない。カカシも、記憶を戻したのは専門医の先生だよとナルトに言った。
 本当はサスケがしたことだと、サクラは思っている。それでも確証のないことには違いないのだ。
「…あんたがサスケ君の『監視任務』してた時は、ほぼ二人きりだったから、その間のことは私には分からないけど」
 ナルトは俯いた。
 落ち込むのも分からなくはない、サクラは苦々しくナルトを見つめた。ナルトの言うように、サスケの様子はおかしい。
『お前のためにここにいる』
 包帯でその目がこちらから見えなかったのは、ある意味では幸いだった。
『お前の望むようにしてやる』
 その言葉通り、サスケは里に居続けているし、反抗の素振りもないし、ナルトに微笑みかけさえする。
 何故、という疑問は贅沢だろうか。
「…あいつを連れ戻そうとしたのは、間違いだったのかな…」
 不意に、俯いたナルトが呟いた。
 かつて仲間を大切に思ったことを思い出してほしかった。それが、いつしかサスケの心を無視し、里へ連れ戻すことが目的となってしまったのではないのか。
 そんなことは、サクラだって散々考えた。
 ぱしん、と乾いた音が小さく響いた。
「サクラちゃん…」
「あんたが揺らげばサスケ君も揺らぐわ。サスケ君に、私たちの気持ちを疑わせないで」
 ナルトは軽く打たれた頬を押さえて、厳しい言葉を優しい声音で囁くサクラを見上げた。
「ま…とにかく二週間の『監視任務』中のことは、次に面会に行った時にサスケ君から直接訊いたら?」
「…あ」
 気分を切り替えるように言ったサクラに、ナルトは困った顔をした。
「俺、不法侵入の罰則で、面会禁止になったんだってばよ…」
「…はあ?」
「えっと…サスケの判決が出るまで」
 項垂れるナルトに、サクラが軽く怒りを感じるのも仕方ないことだろう。サクラは額に手を遣り、大袈裟にため息をついた。
「あんたって本当に考えなしね。不法侵入なんて、下手したらあんたまで牢屋行きじゃないの! やるなら見つからないようにやりなさいよ!」
「え、いや、でも…俺は覚えてねーんだってば!」
 サクラは額から離しかけた手をぴたりと止めた。
 覚えていない?
 そういえば、さっきも聞いた。
「夜、自分ちで寝て、朝起きたらサスケの牢屋の中にいたんだってばよ…」
 尻すぼみになってゆくナルトの科白、サクラは医者の目で見つめた。
「…それも一種の記憶喪失よね」
「ん? そうなるの?」
「ちょっと寝ぼけて徘徊しました、ていうレベルじゃないじゃない?」
「俺、忘れ易くなってんのかなあ…」
 忘れたって言うより知らねえって言う方がしっくりくるんだけど、と言うナルトを、サクラはじっと見下ろした。

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