ゲシュタルトロス・フクス:6


 
 
 ああ、また封印の檻だ。
 またこの檻の夢を見ている。ナルトは薄暗く湿った檻の内側から、外側を振り返った。足下は、前回見た時と同様、膨大な数の巻物で埋め尽くされている。九尾はいない。
 サスケの牢で目覚めた記憶のせいで、檻の内側にいる夢なんか見ているのだろうか。ナルトは巻物に足を取られながら檻の外へ出た。檻はただの檻で、巨大な獣を封じるのに相応しい大きさで、ナルトが出入りするのに何の支障もない。
 檻の中を見る。
 九尾はおらず、一角に多少巻物の整理された場所が見えるだけだ。しんと静まり返っている。ここはいつでも夜のようだ。
 ふと、整頓されたところにある巻物の幾つかに目が止まった。腰の高さほどに積み上げられた上にあるものだ。足元に広がる巻物とは、表装の色が違う。他はどす黒いような古びたものばかりなのに、はっきりと赤い巻物があるのだ。ナルトは興味を引かれ、再び檻の中へと歩を進めた。
 よろめきながら辿り着くと、ほんの僅かなスペースだけ床が見えた。人が一人、座れる程度だ。ざらざらと雪崩る巻物を押さえながらそこへ立ち、ナルトは数本の赤い巻物を見下ろした。
 新しいもののように見える。
 一つを手に取る。タイトルはなく、特別封印もない。まあいいか、これは夢なんだからと、ナルトはそこへ座って巻物を広げた。
「うわ、」
 小さな文字でびっしりと埋められている。読めるのか、と目を近付けた途端───。
「え…」

 サスケの顔が目前に見えた。

 驚愕に巻物を取り落とすと、まるでスクリーンに映し出されたようなサスケの映像は消え去る。予期しないものを見て、ナルトは心臓が跳ね上がっていた。一瞬止めてしまった呼吸を再開して、ため息をつく。
 サスケ。
 包帯はしておらず、黒々とした瞳がこちらを見ていた。何なのだ、ナルトは膝から転がった巻物をたぐり寄せ、再び目に近付ける。小さな文字を読もうとした時、同様に映像が展開された。至近距離のサスケの顔。耳の奥で、声が聞こえた。
『…サスケ』
 それは自分の声だった。
『サスケ』
 目の前のサスケは包帯をしていない。だが、その目は閉じられている。眠っているのか? いや、体を横たえている様子ではない。ふと、両手がサスケの顔を包んだ。体温すら感じる。その顔が僅かに上向く。
 何だ。
 何をしている。
『まだ早えだろ』
 薄く開いたサスケの口から、サスケの声が発せられる。だが聞こえるのは耳の奥で、だった。目の開かれないサスケの顔、それを包む手の指先が、微かに苛立ちを見せる。
『写輪眼でなくてもいい』
 また自分の声だ。
 一日一時間の範囲でなら許可します、という声がぼんやりと耳を通り過ぎる。これはサクラの声ではないだろうか、ナルトはサスケの顔を凝視しながら遅れて考える。
 不意に、サスケの瞼が上がった。
 黒い瞳がナルトを見た。
 ああ、さっき見たの、これだ。
 ああ、もしかして。
 これは記憶喪失だった時の、自分の記憶ではないのか、と思い当たった。忘れてしまったのは一時的なことで、本当は覚えているのだ。その記憶の引き出し方が分からないだけなのだ。九尾のチャクラの引き出し方が分からなくなったのと同じように。
(ああ…サスケだ)
 ナルトは間近なサスケを必死で見つめた。
(サスケ)
 会いたい、と思う。
 こんな、夢の中で記憶をたぐるような映像ではなく。
 映像の中のサスケは相変わらず無表情だ。だが、こちらに気を向けていることはよく分かる。記憶喪失の自分を気にかけているのだ、と思う。どこかがおかしいと気にかけ、ナルトに監視させて、ナルトを監視していた。
 ああ、サスケは戻ってきたのだ。
 ナルトは唐突に理解した。
 サスケは、興味のないものは見えていない。視界に入っていても、意識には止まらないのだ。そのサスケが、こんなにも自分を気にかけている。
 どうして帰ってきたのか、とか。
 どうしてそんな態度なのか、とか。
 そんな疑問は些末なのだと理解した。
 サスケは戻ってきたのだ。
 サスケはもう、そこにいるのだ。
 そこにいる、そのことこそが重要なのだ。
「サスケ…」
 ああ、バカな話しかしなかったことが悔やまれる。映像の中のサスケは、ただ静かに自分と見合って、指先で髪を梳かれるのを受け入れている。おれの記憶が戻らないと困りますか、という頼りない自分の声。俺は困らねえな、というサスケのさらりとした声。記憶喪失の自分は、ずいぶんとサスケを頼りにしている。最初は怖がっていたと聞いたが、いつからこんなにも頼るようになったのだろう。サスケはナルトを拒否していない。
 ああ、会いたい。
 じわりと何かがせり上がって、視界が滲む。起きても覚えていられるだろうか。今度会ったら、今度こそ、お前が大事だと抱き締めたい。戻ってきてくれてありがとうと伝えたい。
(サスケ…)
 ぽたり、と巻物に雫が落ちる。
 それでもナルトは映像のサスケから目を離すことが出来なかった。


「サスケ…」
 呟いた、自分の声で目が覚める。
 カーテンの隙間から差し込む光は強くはないが、鳥の鳴き声と相俟ってナルトの意識を引き上げた。
 何だ?
 目をこすると、手が濡れる。涙だ。泣いていたのか。何か夢を見ていたのか。不意にサスケの顔が思い浮かぶ。その顔を包む自分の手。ああ、そうだ、サスケの夢を見ていたのだ。光を弾く、濡れた硝子のような黒い瞳がナルトを見ていた。
 ああ、サスケに会わなくちゃ。
 会って抱き締めて、ありがとうって言わなきゃ。
 それは、どうしてだったか。
 よく分からない。
 切ない気がして、ナルトは弱くため息を吐いた。
 

*     *     *

 
 大きなショルダーバッグを二つ抱えたサクラは、いつも通り留置場の受付でサインした。その後ろから、機材を乗せたワゴンを押す助手もついて通る。
「そちらは?」
「見習いの看護師よ。今日は荷物多いし…、ま、経験も積まないとね」
「ではサインをこちらにも」
 助手は言われるままに、登録番号と名前を記入する。照会にさほど時間はかからない。
「機材は…」
「いつものと同じよ。あとは着替えと寝具の替えも。ワゴンがある時じゃないとね」
 サクラは慣れた手つきでショルダーをカウンターに置き、ファスナーを開いて見せた。助手も倣ってショルダーを開き、ワゴンに掛けられた静電気防止の布をめくってみせる。
 普段は簡単な基本検診のみだが、週に一度こうして精密検査をしているのだ。受付の忍は機材とショルダーを一瞥し、寝具を重点的にチェックすると書類にスタンプを押した。
「毎日大変ですね」
「別に通うのは大変じゃないわ、サスケ君に会えるんだもの。ただ、この手続きだけが面倒なのよね」
「すみませんね」
「ううん。そっちこそ、昨日は大変だったみたいじゃない? 昨日の検診の時には知らなくて普通に通っちゃったけど」
 サスケ君も何も言わないし、と膨れてみせるサクラに、受付の忍は気まずそうに頭を掻いた。
「油断と言えば油断ですからね。お陰で減棒ですよ」
「やだ…お気の毒さま…」
 すっかり顔見知りとなった受付と、サクラはこうして毎朝軽く世間話をするようになっていた。助手の方が「春野主任」と時間を気にして声をかける。
「あ、そうね。じゃあ、またあとで」
「お気をつけて」
 受付に軽く手を挙げて応えると、サクラは助手を連れて監舎へ踏み入った。
 付き添いの守衛と共に、すぐに地下へのエレベーターに乗り込む。各階の入り口には看守がいて、来訪者の安全を確保するのと同時に監視をも兼ねる。
「…厳重なんですね」
 助手がサクラに囁いた。
「ここは留置場だから、そんなでもないわよ。刑の確定した監獄はもっとすごいんだから」
「そうなんですか?」
 不安げにきょろきょろと見回す様子に、サクラは苦笑する。
「それに、サスケ君は何もしないから、本当は見張りなんて必要ないのよ。何しろ出たくないって言うぐらいだし」
「はあ…」
 エレベーターを降りると、守衛は看守に合図する。看守はサクラにニコリと笑うと、助手に目を止めた。
「あ、この子、助手なの。そのうち、私が来られない時には代わりで来るようになると思うから、宜しくお願いします」
 サクラの紹介に、慌てて助手はぺこりと頭を下げた。
「へえ、そうか。宜しくな。確かにあんた、ここ二ヶ月ほとんど休みなしだもんなあ」
「うふ、そりゃあサスケ君に会える機会は逃したくないもの! …サスケ君の様子、どうですか?」
 普段は訊かれないことを訊かれて、看守は苦い顔になった。昨日ここに『侵入者』が現れたことをサクラが知っていると気付いたのだ。
 侵入者のことは、内々に処理するからと火影代理から箝口令が敷かれている。看守は肩を竦めて見せた。
「普段と変わらずおとなしいよ。楽なお守りだ」
「お守り…」
 見張りって言って下さいよ、とサクラも苦笑いする。
 サスケがここに入って以来、看守は代わっていない。サクラがナルトと共に来た日も、ナルトが一人で面会に来た日もこの看守だ。昨日の『侵入者』がナルトであることは彼も身をもって知っているだろう。ごめんなさい、と僅かに頭を下げると、看守も理解したのか軽く目配せを返す。
 そのまますいと視線を外すと、看守は鍵で重い鉄の扉を開いた。守衛に牢の鍵を渡し、横目で見送る。サクラと助手は、一礼して扉を抜けた。
 見通しのよい広い廊下、換気はされているはずなのに、酷く淀んでいる気がした。

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