ゲシュタルトロス・フクス:7


 
 
 意識は霧のように拡散していた気がする。
 ようよう形を取り戻し、気がつくと、巻物に埋もれていた。そこは間違いなく封印の檻だ。たゆらはおもむろに体を起こした。ばらばらと古い巻物が滑り落ちる。
 昨晩も、はっと気付いた時にはナルトのアパートにいた。二度目の現象に、彼も今度は冷静だった。前夜のように一晩経てば戻るのだろうか? 戻らなければ、サスケの言うようにナルトのふりでしらを切る。ベッドに横たわったまま、強く『ナルト』を意識した。困ったようなカカシの顔、面会を禁止する、という声。やるなら見つからないようにやりなさいよ、というサクラの声。
 サスケの牢で眠ってしまったあと、どういう塩梅か『ナルト』は戻り、自分は檻へ戻っていた。今度もまた、眠ってしまえば朝には元に戻っているのだろうか。そう思いながら、身じろぎもせずに再び眠る努力をした。己はあの檻にいなければならない。
 その、努力の結果がこれだった。
 眠れば戻るのだろう。
 だがそれは自分の力によるものではない、とも気付いている。原因はナルトか、とサスケも言った。つま先に解けた巻物が当たり、見遣ると赤い巻物が幾つか転がっている。
 ぐるりと檻を見回す。
 壁際を見れば、積み上げた上に置いたはずの新しい巻物が減っている。たゆらは微かに目を眇めた。
 足元のものが、それなのだろう。
 それは、たゆらの『記憶』だ。九尾の記憶である古い巻物は、彼には読めないままだ。赤い巻物は、古いものを整理している時に見つけた。広げてそれが、『ナルト』として生活した時の記憶であると知った。
 それはたゆらにとっては大事なものだ。
 九尾の記憶のない彼にとって、その凡そ一ヶ月───更に絞るのなら、サスケの監視任務をした二週間の記憶は、彼の全てと言って過言ではない。ただ一人この檻の中で、何度も何度も巻物の中の記憶を辿った。会いたい、という思いを噛み殺し、この檻にあり続けることが唯一サスケとの繋がりなのだと戒めた。
 その、大事な『記憶』が。
 無造作に転がっている。広げられたままのものもある。立ち尽くしたままじっと見下ろし、そして檻の外を見る。再び足元に目を戻す。
 誰かがこれを見た。
 誰か、などとは知れていた。
 昨夜とその前夜、似たような散らかし方を彼は見た。
 不意に、身の内に何かが膨れ上がるのを感じた。視界が赤く染まる。呼吸が苦しくて、喘ぐように大きく息を吸い込む。もっと吸い込む。よろめいて古い巻物の上に手をつき、膝をつく。ああ、と吐き出しただけの空気は、地鳴りのような咆哮となって檻を震わせた。
 悲しいということだろうか。
 悔しいということだろうか。
 体の内側はどろどろに溶けているかのようで、自分が得体の知れないものに変わってしまうのではと戦慄した。縋った巻物に爪を立てる。がりりと掻いて、はっとした。この『ナルト』の形は、かりそめに過ぎない。だが九尾を覚えていない彼は、ナルトの形を失えば己がどんな形となるのか想像もつかなかった。九尾に戻るのならば、まだいい。だがあの泥のようになってしまったら、意識を保てるのかすら怪しい。いや、九尾の記憶が戻った時も同じだ。自らの意志でこの檻に留まることが出来なくなるのなら同じことだ。サスケの指示に従えなくなるのなら同じことだ。たゆらは目をきつく閉じ、サスケを思い描いた。全てを従わせるサスケの赫い瞳を、全てを呑み込む虚空のような黒い瞳を。
 荒い呼吸が、肺の存在を知らせた。
 どろどろだった体の内側に鼓動が戻り、心臓は確かにそこにあると、たゆらは確認する。
 九尾の記憶など───必要ない。
(己は己であればいい)
 整い始めた呼吸に、彼は体から力を抜いて、九尾の記憶に寄りかかる。視線の先には赤い巻物。掌を見る。ナルトの手。だが、これは『たゆら』の手。
(…サスケ…)
 その手の向こうの空間をじっと見つめる。
 サスケ。
 たゆらに呼応するように、ナルトの声がそこに小さく谺した。その空間を探るように目を凝らすと、そこに、サスケがいた。
 

*     *     *

 
「おはよう、サスケ君」
「…ああ」
 ガラガラとワゴンの立てる音に、サスケは身を起こしてサクラを待っていた。守衛は牢を開けるとサクラたちを中へ促し、すぐに閉じて鍵をかける。不安そうな助手は守衛を振り返るが、大丈夫だからと微笑みを返されるだけだ。
 サクラはサスケに近寄ると、断りなく手を伸ばし、目を覆う包帯を解く。サスケに警戒する様子は全くない。
「目、開けていいわよ」
「…」
 サスケはゆっくりと瞼を上げた。目が合うと、サクラは小さく笑った。どんな場所であろうとも、会えること自体は嬉しいのだ。
 持参している濡らした手拭いをサスケに渡し、検査のための機材のセッティングをする。
「ちょっと、何見とれてるの!」
「は、あ、すみませんっ」
 つい今しがたまでびくびくしていた助手は、包帯を取ったサスケに目を奪われていた。こんな場所で鎖に繋がれ、痩せ衰えてさえ、サスケの容姿は女の目を引く。サクラは呆れ半分、同情半分で助手に指示を出した。
 サスケは躊躇も何もなく服を脱いだ。手錠は外されないが、いわゆる囚人服はそのまま脱げるようになっている。じゃらじゃらと重い音を立てながら、渡された手拭いで体を清める。
「貸して」
 機材の準備が整うと、サクラは手拭いを受け取ってサスケの背中を拭いた。
「昨日ね、ナルトが私のところへ来たの」
 体を清め、ベッドに横になるサスケに心電図の電極を貼り付けながら、サクラは話しかけた。いつもの雑談だ。
「で、サスケ君に伝言。『またすぐに会いに行くってばよ!』だそうよ」
「…」
 クスクスと笑いながら言うサクラに、サスケは胡乱なまなざしを送る。廊下では守衛がその言葉にぎょっと目を見張った。
「面会禁止だろ」
「あら、もう知ってるの?」
「カカシに聞いた」
「そっか、昨日会ってるんだっけ」
 全くバカよねえ、とサクラは笑うが、助手はこの件については何も知らない。サクラはそれ以上は言わずに、計器のスイッチを入れた。


「じゃあ、予備の毛布はベッドの下ね。足りなかったら幾らでも持ってくるから、いつでも言って」
「…そんなに快適にしてどうすんだよ」
「あら。言っておくけど、体調崩したら誰が何と言おうとも病院へ連れて帰るんだからね!」
 言ってから、その方がいいかしらとサクラは首を捻る。助手は苦笑いで機材を片付けた。ちらりとベッドの下を確認したサスケに、サクラは最後の手順で目を覆う包帯を巻く。
 いくら毎日手拭いで清めているとは言え、髪は汚れてべたついている。ここは留置施設で、風呂はない。
(ナルトが『監視任務』してた時は、髪も綺麗だったし血色も良かったのに…)
 髪も体も、拭うだけでは限度がある。
(何か理由付けて、病院に戻しちゃおうかしら)
 ため息を飲み込んで、サクラは包帯の端をとめた。
「じゃあ…サスケ君。また明日」
「ああ」
 待ち構える守衛が、牢を開く。
 いつも通り、何の問題もなく検診は終わった。ベッドの上に胡座をかくサスケに、サクラと助手は鉄柵越しに視線を残す。二人は目を見合わせると、黙って守衛のあとに続いた。
「…」
 ガラガラという音が遠ざかり、すぐに鉄の扉の軋みが響く。それは空気の振動と共に閉まり、次いでほんの微かなエレベーターの駆動音がサスケの耳に伝わった。視覚を遮られている分、聴覚は以前より鋭くなっている気がした。
「…で?」
 しんと静まり返る牢で、普段ならすぐに体を横たえてしまうサスケは、胡座のままで小さく声を発した。
「何しに来た」
「あ、やっぱ、バレてんの?」
 ベッドの下から、ナルトの声が這い出した。
 

*     *     *

 
「へへ…」
 いたずらが成功した、とでも言わんばかりの得意げな笑い声が密やかに空気を揺らす。サスケはため息をついた。
「毛布に変化かよ」
「サクラちゃん立案だってばよ」
「おい、ベッドから60センチ以上離れるなよ。監視カメラに写る」
 廊下は監視カメラが見張っているが、牢の中までは撮していない。一応のプライバシーということだろうか。
「分かってるってば」
 ナルトはベッドに腰掛け、懐から圧縮した毛布をごそごそと取り出した。空気を含ませ元の形に戻す。毛布に変化するのは良いが、持ち込みと持ち出しの数は受付で確認される。ナルトは圧縮毛布を抱えて、毛布に変化していたのだ。
 やはり、とサスケはサクラを思い返した。ベッドの下へ篭に入れた毛布を押し込む時、ちらりと視線を送られたのだ。単なる確認、とも取れるさりげない視線は、しかし守衛や助手からはもちろん死角だった。
 と、するならば。
 今日連れてきた助手とやらも、守衛の注意を引きつけておくための目くらましだったのだろう。週に一度の精密検査、普段は力自慢のサクラが片手でワゴンを押して一人でやってくるのだ。見慣れない人物を連れてくれば、警戒はしていないつもりでも意識は引かれる。
「お前、分身だな?」
「おう。本体はもう任務に出てるってばよ」
 戻した毛布を篭に入れ、ベッドの下へ押し込んで、ナルトはサスケに向かい合った。
 当然のようにナルトの手が額に伸びて、サスケは咎める。
「おい…」
「大丈夫、サクラちゃんの許可は貰ってるってば」
 大した共犯だ、サスケは諦めて黙った。
 お世辞にも、器用とは言えない手つきで包帯を解く。サスケはナルトとたゆらを比べていた。
「分身でごめんな。バレないようにするには、これが一番だって言うし」
 目を開けると───。
 明るい口調からは予期しなかった、真剣な顔がそこにあった。
「あと、昨日のことも、ゴメン。お前も取り調べ受けたって聞いてさ」
 まるで自分の失態を認めているような口振りで、サスケは笑った。ここへ来たのはたゆらだが、たゆらを表に出したのはこの男の失態には違いない。
「別に…大した取り調べじゃない。ここでカカシに二、三訊かれただけだ。…カカシはお前を面会禁止の処分にするって言ってたけどな?」
 どういうつもりで再び侵入したのだと、からかい半分といった風情で、咎める口調でナルトを覗き込む。う、とナルトは嫌そうに口を尖らせた。
「あ、会いたかった…から」
「罰則の意味がないだろ、それ」
「で…でもっ、昨日のことは俺は全然、何が何だか!」
「バカ、声がでかい」
 昼間の監視はカメラがメインだ。看守は一時間ごとに見回りにくるが、不審を感じれば飛んでくるのだ。顔を寄せて小声で注意すれば、ナルトは不満げに口を閉じる。昨日のことを弁解したい気持ちは分からなくもないが、あいにくサスケは全て了解している出来事だ。
「…それで? お前本当に何をしに来た」
「…」
 ナルトの眉が、不意に切なげに寄せられた。
「あのさ、あのさ、…会いたかったんだってばよ…」
「…」
 それはさっきも聞いた、サスケは次を促すようにナルトを見つめる。不意に、ナルトの腕が広げられた。次の瞬間には、サスケの体はその腕の中にあった。
「…おい」
 ぎゅう、と抱き締められて、訳が分からない。詰めた息を吐く気配に、ナルトが緊張していたのだと気付いた。
「…ありがとう、サスケ」
 何だって?
 どんな流れで「ありがとう」なのか、サスケには分からない。僅かに首を動かすが、当然ナルトの顔は窺えなかった。
「戻ってきてくれて、ありがとう」
「…」
 サスケは身じろぎもせず、それを聞いた。
「お前が、死んでもいいみてえに俺を助けてくれたのは、ありがとうなんて言いたくねえけど。でも、お前が生きてて、俺も生きてて、お前が戻ってきてくれたのは…嬉しいんだ」
 じわり、とナルトの体温が服越しに伝わった。
 以前面会に来た時を思い出す。あの時は、ずいぶん思い詰めた様子だった。鉄格子を挟んで、こちらは目隠しをしたまま。
「何を言っても…聞いてくれなかったお前がさ、何で急に思い直してくれたのか、不安だったんだけどさ、」
 そうだ、ナルトにしてみればあの時、戦いはつい先日の出来事だったのだ。戦いが終わり、目覚めてすぐがあの状況だったのだ。殺し合いをした相手が自分を助けたのだと知れば、動揺も仕方ない。
 サスケは笑んだ。
 サスケの方は、ナルトより早く意識を取り戻していた。つぎはぎの体は自分の意志では動かせず、ベッドの上で考える時間だけは余るほどあった。
「…ナルト」
 背中にぴったりと張り付く掌が熱い。肩口が湿った気がして、細かく震えるナルトはたぶん泣いている。
「急にじゃない。俺はお前より一ヶ月以上も前に目覚めたんだぜ。記憶喪失もなかったしな」
「…」
 揶揄する響きに、ナルトは顔を上げた。そろりと体が離れ、ナルトから与えられた体温が急速に失われる。頬を伝い落ちる滴を、ナルトは乱暴に拭った。
「ナルト、俺は俺の意志でここにいる。そんなに心配しなくても、里を抜けるようなことは、もうしない。理解したか?」
 戸惑った顔に、サスケは畳みかけた。何故、と問われるのは避けたかった。
「さすがに、もうお前と一緒に任務、とかはないだろうがな。それでも、俺はここにいる。大丈夫だ、裏切ったりしない」
 サスケは自嘲気味に笑った。ナルトが怪訝に見つめるせいだった。その期待通りの言葉を、サスケは口にした。
「お前、火影になるんだろ? ここで…木ノ葉で、見張っててやる」
「サスケ…?」
 サスケがそこにいるかどうかは、サクラに確認すればいい。体が復調したあとは、刑の内容にもよるだろうが、カカシに確認すればいい。
 会いたかった、と言うナルトの本心は、本人も気付いていないだろうが、サスケの存在の確認だ。
(あの時俺が死んでいれば楽だったのに)
 サスケが、ではない。
 ナルトが楽だった、はずなのだ。
 死体を木ノ葉に連れ戻り、墓を木ノ葉に作れば、ナルトはいつだって確認などせずともサスケの存在を木ノ葉に信じることが出来るのだ。なまじ生きているせいで、またいなくなるのではと疑心暗鬼に捕らわれる。
(俺はまだ迷っている)
 ナルトの怪訝そうな顔は不満そうなものになり、強く肩を掴まれた。
「…お前が何考えてんだか、俺にはさっぱり分かんねえけど。でも、俺はお前が大事なんだってばよ」
 大事?
 今度はサスケが怪訝な顔をする番だ。
「サスケ、ありがとな」
 戻ってきてくれて、ありがとう。
 強く目を見つめられてはっきりと言われ、サスケは「ああ」と曖昧な声が己の口から零れるのを、どこか他人事のように聞いた。

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