ゲシュタルトロス・フクス:8


 
 
 ナルトの目が見ている先のサスケは、微かに戸惑った表情をしていた。
 初めて見る、いや、そもそもサスケが目を開けているところなど、たゆらはほとんど見る機会はなかった。
 サスケは、牢の中で手枷を鎖に繋がれていた。重く無粋な鎖は壁から伸びている。牢の中ですら、行動範囲を制限されているのだ。サスケはそれを漫然と受け入れている。ナルトに抱き寄せられることも、両手で肩を掴まれることも、サスケは許している。たとえば、それがたゆらであっても、サスケは許すだろうか。許すのだろう。手に触れても、サスケは何も言わなかった。その指先に口付けても咎めなかった。手首を抱き締めても笑うだけだった。
「俺はお前が大事なんだってばよ」
 ナルトが言う。
 大事なら、何故連れ戻したのか。虜囚の扱いを受けると知りながら、何故。
「戻ってきてくれて、ありがとう」
 ナルトは言う。
 何故、サスケと共に里を離れることをしなかったのか。火影になるというのは、サスケ以上に大事なことだとでも言うのだろうか。サスケは何故それを受け入れられるのだろうか。
「俺、記憶喪失だった時のこと、夢の中でちょっとだけ思い出した」
 ナルトは言った。
 サスケの目が、僅かに見開かれた。たゆらは体を起こし、その目と見合った。ナルトの両手がサスケの顔を包んで、たゆらは眉を顰める。
「お前、俺の記憶が戻らなくても困らねえって言った?」
 サスケは何度かまばたいて、口を開きかけたままこちらを凝視した、ナルトを凝視した。何で、とその口が動いた。
「ごめんな、忘れちまって。お前、俺のことすげえ心配してくれたんだよな」
 サスケの目が探るようにナルトを見ていた。サスケは、その時のナルトがナルトではないと知っている。だが、あの時サスケは彼をナルトだと思って接していたのだ。たゆらは座り込んだまま、手元の巻物に爪を立てた。視界に入る赤い巻物、それはたゆらの記憶だ。だがそれは、本来ナルトが享受するはずだった記憶なのだと、たゆらは気付いた。気付いてしまった。
 では、
 では、己は、
(何なんだ)
 ただの代替品か。
(サスケ)
 そうだ、サスケは、ナルトを選んでいた。
 たゆらにここへ残れと言い置き、ナルトを連れて帰った。指先が震える。肩が震える。声も出ない。置き去りにされたのだ。サスケはそもそも、自分など見てはいない。サスケが見ていたのはナルト、始めからナルトだけだったのだ。
(繋がり、など)
 始めから存在しない。
 空虚だった。
 それでも、たゆらはナルトの視界の中のサスケから目を逸らせなかった。
 

*     *     *

 
 サスケは目の前のナルトを凝視した。
(思い出した…だと?)
 ありえない。あれは『たゆら』なのだ。己の記憶が戻らないと困りますか、たゆらの抑揚のない科白が記憶に蘇る。あの時、確かにサスケはそれをナルトだと思っていた。だが、実際は記憶をなくしたのは九尾であり、目覚めないナルトを押し退けて表に出ていた。
 たゆらの記憶はたゆらのものであり、ナルトのものではない。ナルトがそれを知らないのは、別個の存在だからだ。それを『思い出した』とは、どういうことなのか。
「…ナルト」
「ん?」
 頬を両手で包むという行為は、文字で表すのなら同じことだ。だが、二人の触れ方はあまりにも違う。
「どうやって…思い出した? 夢の中で…って、それ、単なる夢じゃないのか」
 たゆらの触れ方は慎重で優しかった。こんな唐突に触れたりはしない。いつでもサスケに予兆を与え、こちらに警戒させなかった。
「あー、よく覚えてねえ。ただ、…ただ、さ。お前に会って抱き締めて、ありがとうって言わなきゃって思いながら目が覚めてさ」
 それだけなんだけど、とナルトは照れたように笑う。
 分からない。
 たゆらに会ったのか。
 夢の中で? いや、ナルトが夢だと思っているだけなのだろうか。だが、会ったのなら、何も会話を再現することもなかっただろう。そして会ったのなら、そのインパクトを忘れてしまうだろうか?
 本当にただ夢を見ただけなのか。
「…本当に、夢の中で記憶を、」
 見たのか。
 そう言いかけて、サスケは喋ることを忘れた。
「サスケ?」
 見た、のだ。
 封印の檻を脳裏に描く。腐った血肉の泥、それは今、巻物となって床を覆い尽くしている。開いて見た九尾の記憶は、九尾の視点での映像だった。巻物は記憶の具象化に過ぎない。たとえば、たゆらの記憶も巻物となっていたら? サスケが九尾の記憶を垣間見たように、ナルトもたゆらの記憶を見たのだとしたら?
 だとするのなら、それは、夢ではない。
 不意に昨日の現象と合致した。ナルトはあの檻へ行ったのだ。そうしてたゆらを弾き出した。訳が分からないたゆらはサスケを頼ってここへ来た。
「…その夢、ゆうべ見たのか?」
「え? ああ…ゆうべってか今朝だけど」
 ならば、昨夜もたゆらは表に弾かれていたはずだ。だがここへは来なかった。聡い彼は、朝には再び戻ると判断したのだろう。もし戻らなかったとしても、サスケの言葉通り『ナルトのふり』でしらを切る。そうして何か理由を付けてここへ来たはずだ。
 サスケはため息をついた。
「な、何でため息!?」
「あのな、それ、ただの夢だぜ」
「えっ」
 九尾の檻へ近付くな、とは言えない。ましてや、そこにある巻物を無闇やたらに開くな、とはもっと言えない。それを言えば『たゆら』の存在を説明しなくてはならなくなる。
「でもお前さっき、どうやって思い出した? って訊いたじゃねえか」
「どうやって思い出したと思ってるんだ、って意味だ」
 たゆら、記憶を失った九尾のことを、サスケは誰にも明かしていない。それは当然、ナルトに対しても同様なのだ。
「確かに、お前の記憶が戻らなかったとしても俺は困らない。だがそんなこと、お前に訊かれたことはないし、答えた覚えもない」
「…マジで?」
「ああ」
 じゃあ何だったんだろう、とナルトは頭を抱えた。
「だから夢だろ。単なる」
「うー、そうなのかなあ…」
 今、写輪眼を開いてナルトに幻術をかけることはたやすい。その上で九尾の檻へゆき、たゆらに確認することも可能だろう。
 だがサスケは、そうはしなかった。
 ただ目を開くのとは訳が違う。先のことなど何も考えずに酷使してきた。確実に写輪眼の寿命を削っていたのだ。今では、一度開けば相当の負担を強いられる。些細なことで使いたくはない。万が一の事態、たとえばたゆらが九尾の記憶を取り戻し、完全に封印を破ろうとする時などに使えないのであれば意味がない。
「なあ、サスケ」
 うんうん唸っていたナルトが、ふと顔を上げた。
「記憶喪失だった時さ、俺ってば、お前に…何か変なこと言った…?」
「変なこと?」
「言った、とか、した、とか…」
 サスケは怪訝にまばたいた。
 里を抜けるのも構わない、と言ったことだろうか。それとも、いずれ失明するサスケに自分の目を「差し上げる」と言ったことだろうか。だがそれらは、ナルトには関係ない。
「さ…サクラちゃんに聞くとさあ、何か…お前しか見えてなかったみたいでさあ…」
「ああ…気にすることはないだろ。覚えがあったのが俺の写輪眼だけだったんだから」
「うーん…」
 不服そうな顔で、ナルトは再び俯いた。
 ナルトはナルトで、自分が記憶喪失だったと言われることを不安に思うのだろう。実際にはナルトは何も失ってはいない。ただ、たゆらに眠っていただけなのだ。
 たゆら。
 檻に残してきた子狐の方こそ、本当は不安なはずなのだ。サスケは赤く染まった目を思い出す。退行催眠の治験を行った時、たゆらは記憶を引き出しかけていた。あの時治験の邪魔をしなければ、たゆらは九尾の記憶を取り戻していたかも知れない、とサスケは思う。だが今、檻でおとなしくしている分には、記憶を取り戻す手だてはないと言っていいだろう。
 そのまま、おとなしく檻にいて貰わなければ、困る。
 カカシは九尾の封印を調べさせているようだったが、解明して、今剥がれかかっている封印を張り直すことが出来るのはいつになるか分からない。
「いいだろ、別に。記憶喪失だった時のことなんて」
「え?」
「重要なのは、お前が元に戻ったってことだろうが」
 サスケは意図的に笑んでみせた。ナルトはそれを、何故か、失敗したとでもいうような顔で見つめた。
「…サスケ」
 ナルトの声は、僅かに震えていた。
「本心かも、知れねえんだ」
 何だって?
 サスケは笑みを乗せたまま、ナルトを窺った。
「俺…お前がここを出たいなら、お前を連れて里を出るって…言ったんだろ?」
 記憶喪失の時の話だ。サスケの笑みは冷笑に変わった。それはナルトではない、たゆらが言ったことだ。
「…それが、本心かも知れないって?」
「里のこととか、仲間のこととか、火影になるとかさ。そうゆうことを抜きにしたら…」
「ナルト」
 じゃら、と鎖を引きずって、サスケはナルトの胸倉を掴んだ。
「二度と言うな」
「サスケ…」
「誰の前ででも、二度と言うな。少なくとも俺は聞きたくない。俺は俺の意志でここにいるんだ。分かってんのか」
 かつてたゆらに言い聞かせたことを繰り返す。
 だが理由など、誰にも教える気はなかった。
「…分かった、もう言わねえ」
 強く叱責した訳でもないのに、ナルトは打ちひしがれたように歪めた顔を背ける。手を離すと、長い鎖がナルトの膝に残った。
「俺に…出来ることって、何かねえのかな」
 その鎖を掬い上げ、ナルトは呟いた。
 虜囚の身であるサスケのために、ということだろうか? サスケはベッドの上に放り出された包帯を取り、ナルトに手渡す。
 忘れてくれればいいのに、とサスケは思う。
 だが、もう遅い。
「逆だろ」
「え?」
 サスケははぐらかして笑った。
「お前みたいなドベを火影にするのに、俺は何もしてやれない」
「サスケェ…」
 冗談は通じたようだ、ナルトは情けない声をあげた。
 もうすぐ見回りが来る、と急かせば、その包帯をナルトは慌てて巻き始める。きついし髪を巻き込んでいるし、でたらめだ。文句を言うと辛うじて緩めて巻き直す。嫌が応にもたゆらと比べてしまうのは、ナルトのせいだ。
 巻き終わると、不意に再び抱き込まれた。
「…面会禁止、判決が出るまで…なんだってばよ」
 首筋で囁かれて、サスケは眉を顰めた。身じろぐと、きつく抱き締められる。
「…ナルト、俺はどこにも行かない。ここにいる。だからもう来るなよ」
「お前、ほんとに何かの確認とかで、俺が会いに来てると思ってんのかよ…」
 弱いため息のような吐息が震えていた。
 ただ会いたいだけなんだ、と囁かれた。
「…お前、そればっかりだな」
「しょうがねえじゃん」
「まあ、どうせ判決はそんな先でもないって話だ。おとなしく待ってろよ」
「…」
 返事はない。むずがるように頭をすり寄せられて、サスケもとうとうため息をついた。
「もう消えろ。見つかったら判決が出るまでどころじゃないだろ」
「…分かってるってばよ」
 ふて腐れたような声と共に体温が離れる。
 ふと、頬を指先が掠め、一瞬躊躇したあとに包帯を確かめるように縁を辿ってゆく。
「サスケ、またな」
「…ああ」
 影分身の消える独特な空気の振動、サスケは酷く疲れた気がして、そのままベッドに倒れ込んだ。

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