ゲシュタルトロス・フクス:15

15
 
 
「…包帯、どうしたの?」
「…外れた」
 翌朝、目覚めた時にはナルトの姿はなかった。不器用な包帯は一度巻き直したことが明らかで、サクラの問いも尤もだ。今まで、ただ眠っただけでこんな状態になったことはない。何かあったのだと疑われるに足る状況だ。
 だが他に言いようもない。
 特段言い繕うこともなく、事実だけを、ただし余計なことは伏せて答える。そうみたいねと相槌を打つサクラは、あえて困惑を隠しているようだった。
「ねえ、サスケ君。巻き直すついでと言ったら何だけど、シャワー浴びてきたら?」
「…そうだな」
 風呂は夕べ入っているのに、サクラはそんなことを言う。気付かれている、とサスケは観念した。

 包帯を外すには、監視の目が必要だ。
 当然サクラがシャワーブースまでついてくる。世間話のように、彼女はサスケに話しかけた。
「今朝ナースセンターに行ったらね、監視カメラの電源が落ちてたの」
「…ふうん」
「夜勤の子も警備の人も良く寝ちゃってて。慌ててスイッチ入れたけど…夕べは何もなかった?」
「ああ」
「そう。なら…黙っててもいいわよね? 始末書モノだもの。サスケ君も内緒にしててくれる?」
「いいぜ」
 サクラは、サスケの身に何があったのかを察している。でなければシャワーだなどと言い出すことはないだろうし、監視カメラが切られていたことを上に報告しない理由はない。
 そして恐らく、それがナルトに拠るものだとも気付いているのだろう。実際は、それはたゆらの仕業だ。だが、たゆらのままであったなら、戻る際に監視カメラを復旧させていったはずなのだ。途中で目覚めたナルトには知るべくもないことだが、サクラにはそれで感付かれたのだ。
 後ろめたさに、ただ短く返事をするのが精一杯だった。何故サクラがそれを詰らないのか、サスケには分からない。或いはサスケのいないところで、ナルトだけを詰るのだろうか。それとも憐れまれているのだろうか。いずれ足をなくすサスケを、彼女は憐れんでいるのだろうか。
 それとも、まさかサスケの矜持を心配してでもいるのだろうか。そうではないといい、とサスケは思う。この体は全てサクラに晒しているのだ。今更彼女に体を暴かれたところで、サスケに羞恥と言える感情はない。
 ただ───。
 ただ、ナルトと体の関係を持ったのだと思われていることが、サスケを仄かに緊張させる。問われれば「違う」と言い切ることが、サスケには出来る。だが、サクラは何も言わない。何も問わない。彼女が何を思うのか分からない。
「やだ、すごい巻き方…。まあ、手錠してる手じゃ、こんなものかしら…」
「…」
 ナルトが巻いたであろう包帯を解きながら、サクラは含み笑いで揶揄する。目を開くと、いつも通り優しく笑うサクラの顔が見上げていた。
「手錠も外すわね」
 小さな鍵をポケットから出すのを見て、手を差し出してぎくりとする。痛むとは思っていたが、手首は擦り切れて赤くなり、血の滲んだ跡すらあった。夕べ『ナルト』の首に腕を引っかけたまま、散々に揺さぶられた結果だった。手首に当たる部分に皮の巻かれた手錠だったが、以前のものだったらこの程度では済まなかっただろう。ナルトの首にも鎖で傷を負わせたはずだったが、彼の場合は治りが異常に早いことが、今のサスケには救いだ。この腕を彼の首に掛けたのだという証拠は残らない。
 サクラはそれが見えているにも関わらず、優しい顔を崩すことなく手錠を取り去った。
「やっぱり手錠は手錠ね…」
 ぽう、と暖かい感覚は彼女のチャクラだ。ほんの十数秒で、ぴりぴりとした痛みが引いた。
「私はここにいるから、何かあったら言ってね」
「ああ」
 医療忍者というよりは介護士のように、心配することは何もないのだという柔らかい笑顔を向けられて、サスケはそれを正視できずに浴室に入った。


 浴室の扉が閉まって五秒後、サクラは血の付いた手錠を握り締めて俯いた。
 これでもかと寝乱れた病院服の隙間から覗く、赤い印。微かに漂う独特の臭い。何があったのかは想像に難くない。シーツは剥ぎ取って、ここへ来る途中にランドリーボックスへ突っ込んできた。今サスケの脱いだ病院服も、帰りに突っ込んでいけばいい。脱衣室の隣にあるリネン庫から、バスタオルと一緒に新しいシーツと病院服も持ち出した。誰にも何も、気付かれることはない。だが、今頃サスケも鏡の中に、あの赤い印を見つけているだろう。
 誰と、などと無粋は言うまい、とサクラは思う。
 サクラはサスケが好きだが、彼が自分を女としては見てくれないことを良く承知している。彼が何でもない顔で素肌を晒すのは、自分を医療忍者として認めてくれているからだ。それを誇らしく思うのは事実だし、彼の助けになれることが嬉しくてたまらない。その彼が誰かのものになるのは、正直に言えば悔しい。ずっと近くで見てきた自負もある。それは彼が里にいなかった時期を除いてのことだが、結果として数年の話だ。
 誰かのもの、たとえばいのや、サクラの知る女性または知らない女性。サスケの腕に掴まって歩く姿などを見せられれば、悔しいし悲しいだろう。選んで貰えなかった事実を目の当たりにさせられてはたまらない。
 だが、同性に奪われるよりはましなのだ。
 サスケを追い続けたナルトに、その思いの内訳を問い質したい衝動に駆られたことは一度や二度ではない。それでも、どこか信じていた。ナルトはサスケに一種の憧れを抱いていて、目標であり友人であり好敵手であるのだと。そしてあくまでも、ナルトが好きなのはサクラなのだと。
 蓋を開けてみれば、どうやらそれは逆だった。
 そうとしか言いようがない。
 そして異性はおろか同性にも、凡そ人間というものに全く関心の見られなかったサスケが、許したのだ。いや、自分自身にすら関心のないサスケであればこその結果かも知れない。いずれにせよプライベートの範囲でもある。体調にさほどの支障がない以上、サクラが口を出せることではなかった。
 自然ため息が出る。
 そのナルトは、宣言通り朝一番で病院を飛び出し、火影邸へ乗り込んでいる。
(せいぜい大暴れ、期待してるんだから)
 この里でサスケに一番近い人物がナルトであることは、周知の事実だ。シャワーの水音を聞きながら、何故それが自分ではないのだろう、とサクラは唇を噛んだ。
 

*     *     *

 
 ナルトが想定外の結果を持ち帰ったのは、その日の午後だった。木ノ葉の元上役の一人、うたたねコハルを───文字通り持ち帰った。
「あんた…何してくれちゃってんのよ…!」
 居合わせたサクラは血の気の引いた声を上擦らせた。
 現在の上役は、サスケの木ノ葉襲撃ののちに総入れ替えとなっていた。だがコハルもいまだ影響力を持つ一人だ。サスケの量刑を審議する場にも当然同席している。
「だって、全然会って貰えねえんだもの」
「だからって拉致!? それ犯罪よ!?」
 火影代理への面会は、前日からの順番待ちが繰り越されていた。痺れを切らしたナルトは、上役をそれぞれ訪ねたのだ。火影代理への面会待ちよりは人は少なかったのだが、上役たちはそもそも面会には消極的だった。
 そして元上役のコハルを訪ねたのだ。
「…拉致ではない、小娘」
 不機嫌を隠しもせずにコハルは言った。
 だが、影分身にぎゅうぎゅうに取り巻かれた姿は、どう見ても真っ当に連れてこられたとは思えない。それでも、老いたとはいえ忍である。幾許かの自負が彼女にそう言わせるのか、とサクラは思った。
「聞いたらさ、上役の人たちはサスケを見たこともねえって言うからさ! おかしいってばよ! サスケの判決なのに、サスケには会わねえサスケの話は聞かねえ、そんなのねえだろ!」
「だからってアンタ…」
「会えば分かることってあるじゃんか、会わなきゃ分からねえことってあるじゃんか! みんなだって、サスケに会って話せば、サスケにもう木ノ葉を潰す気なんかねえって分かるってばよ!」
 サクラは影分身を払いのけながら、自分が座っていた椅子をコハルに差し出す。ふん、と鼻で息を吐いて、コハルはその椅子に腰掛けた。
 サスケを振り返れば、ベッドの上でぽかんと顔をこちらに向けている。目を包帯で隠しているとはいえ、気配に聡いサスケには彼らの位置は正確に把握できているのだ。
「…怖いんだよ、あの子らはね」
 コハルは包帯の顔をじっと見つめ、そしてその手元を見た。手錠のかかる手は無為に投げ出されている。
 あの子ら、というのは現在の上役のことだろう。コハルからすれば彼らもまだ若い。
「怖いって、サスケは何もしねえよ」
「そうじゃないよ、バカな子だね」
「バ…」
 コハルはちらりともナルトの方は見ず、ベッドの上の痩せこけた少年を見ていた。
「あの子らも、何でうちはサスケが木ノ葉を襲ったのか知ったからね。見れば揺らぐさ。国際法廷を拒否した以上、判決に手心は加えられないんだ」
 戦場からサスケを連れ帰ったのはサクラたち医療班だったが、その後引き渡しを拒否したのは木ノ葉上層部だった。それはひとえにイタチの真実を隠すためだ。火の国も写輪眼ゆえに放出を惜しんだのは渡りに舟だった。色々と理由を付ける火国と木ノ葉を、周囲は写輪眼保護のためだろうと勘違いしてくれるのはありがたいことだ、という計算があった。
 ゆえに、刑罰としては類を見ない判決内容も、写輪眼の抱え込みと映るだろう。実際火の国はそれが目当てである。
「…うちはサスケ」
 コハルは表情の見えにくい目をサスケに向けた。
「大きくなったな」
「え…、コハル様は、サスケ君のこと…」
「見ていたさ。まあ…監視という意味もあったがね」
 ナルトは拳を握り締めた。ナルトもサスケも境遇こそ違えど、待遇は同じだったのだ。
「うちはサスケ。謝罪を拒否したっていうのは本当かい?」
「…本当だ」
 サスケの声が低く答える。
「俺には、あんたらに謝ることは何もない」
「何も知らない木ノ葉の民を殺そうとしたことも?」
「何も知らせないのはあんたらの罪だ」
「じゃあ何故九尾を押し戻し、うずまきナルトを助けた」
「木ノ葉を潰したのが俺じゃなく九尾だと思われるのは不本意だった」
 サスケの返答は淀みない。コハルもまた動じることはない。これらの問答は既に審議前に行われていたもので、それをなぞっているに過ぎないのだ。
「…何故逃げずにおとなしく捕縛されている?」
 サスケは笑った。
「逃げ切れるほどには回復していない」
「なるほど。じゃあ、何故カカシがいつまでも火影『代理』なのか、知っているか?」
「…」
 サスケが笑みを引いた。知らないのだ。
 ナルトもサクラも、それは知らない。いずれ正式に火影に就任するのだと、皆思っているのだ。
 だが、考えてみれば実に半年以上に渡ってカカシは『代理』であり続けている。里の代表者がいつまでも『代理』のままでは体裁が悪い。
「カカシは火影就任の条件として、イタチの真実を公表し、正式にうちはに謝罪することを求めている」
 三人とも、絶句した。
 カカシがそんなことを考えていたということを、彼らは知らなかったのだ。気付きもしなかった。サクラは苦いものを飲み込んだ。カカシがいまだ『代理』なのは、その条件を認められていないからなのだ。
「…うちはに謝罪?」
 笑い声のような、掠れた声がサスケから上がった。
「おれはうちは姓を剥奪される。この世にうちはがいなくなってからの謝罪に何の意味がある」
「恩赦だよ」
 分かりきった問いだと言わんばかりに、コハルはため息混じりに答えた。
「火影就任の祝いで恩赦を出せる。それでお前のうちは姓を回復させるつもりなんだろう」
「…」
 サスケの顔が、笑んだまま硬直した。
「ま、それを認める訳にはいかなくて、あやつはいまだに代理のまま、こき使われているという訳さ。これで綱手が回復してしまえばカカシはお役御免だ」
 ナルトはぎりりと歯を食いしばった。拳を震わせてコハルの前に回り込む。
「何だよ、それ…!」
 相変わらず、皺の刻まれたコハルの顔から表情を窺うことは難しい。不機嫌そうな老婆は不遜にナルトを見上げるのみだ。
「何なんだよ、それ!」
「現実ってやつだね」
「何も変わってねえってことじゃねえか! 木ノ葉は何も変わってねえじゃねえか!!」
「ナルト」
 せっかくサスケが九尾を食い止めたというのに、せっかく長らえたというのに。激昂するナルトを止めたのは、だがそのサスケだった。
 優しげな声にはっと振り返ると、サスケが薄く笑みを掃いて、塞がれた目でナルトを見上げていた。
「お前が変えればいい」
「サスケ…」
「火影になるんだろ、お前」
 作られた笑みだ、ナルトは一瞬たじろいだ。サスケは本心など話す気はないのだ、と漠然と理解した。ふと、見下ろすその鎖骨に赤い印を見つけてぎくりとする。サスケは何を思って許したのだろう。
「さて…帰るかね」
「コハル様…」
 思ったよりもすらりと立ち上がると、コハルはじっとサスケを見た。
「うちはサスケ。まだ何か言いたいことはあるかい」
 もはや会うことはないのだというコハルの意思表示だ。サクラはきゅっと唇を噛んだ。コハルは確かに、自らの意志でここに来たのだろう。
 サスケは僅かばかり思案して口を開く。
「…このバカのしたことを、出来れば不問にしてほしい」
「そうかい。でもね、あたしは無理矢理連れてこられた訳じゃない。お門違いだよ」
 コハルは面倒くさいと言うように手を払うと、すたすたと出ていった。その横顔は、不機嫌とも憂鬱とも取れる顔だった。彼女もまた枷を負っているのだ、サクラは不意にそう気付いた。

line_b04_1.gifline_b04_1.gifline_b04_1.gif
txt_10_back.giftxt_10_next.gif