ゲシュタルトロス・フクス:16

16
 
 
 ぽろぽろと、何かが崩れてゆくようだ、とサスケは思った。
 早く執行してほしい。
 肉体に意味はない。
 ここへ繋ぎ止める確かな手だてがほしい。パズルのピースを無理矢理填め込むように、この体をここにいていい形に削ってほしい。奥底に押し込めていたものが表に出る前に、この感情が暴れ出してしまう前に。そしていつまでも木ノ葉を憎んでいられるように。
 忘却は罪だ。
 無知は罪だ。
 無知の罪を犯したサスケには、忘却の罪まで重ねることは許されない。滅ぼされたうちは一族がどう思うかではない。弟に英雄たれと望んだ兄がどう思うかではない。サスケがそれを許せなかったことを、忘れてはならないのだ。
 だが───。
(迷っている)
 木ノ葉に恐怖を撒き散らし、木ノ葉を救い、罪人として裁かれ、英雄として留まる。人々は感謝し、しかし恐怖し、いずれまたサスケが木ノ葉に仇なす疑心を抱き続ける。
 ナルトを懐柔し、かつての仲間に微笑みかけ、全てを許したと思わせて、何も許していないのだと思わせる。心を許し、奥底では許していないのだと知らせ、里に在り続けることで里から安寧を遠ざける。浅はかにもナルトは火種を里へ持ち込んだのだと人々に思わせる。サスケは己の体を杭として、人々に呪詛をかけるのだ。
 そう───思っていた。
(俺はまだ…迷っている)
 目覚めたナルトが『記憶喪失』だったことで、一旦気が殺がれてしまった。
 何も覚えていないのなら、いい。
 もういい。
 あの戦いの場で交わした言葉を忘れたのであれば、もういい。
 実際は、記憶喪失だったのは九尾であり、ナルトではなかった。ナルトは、しかし戦場で気を失う直前に交わした言葉を、覚えているようには見えない。忘れたのならいい。問い質す行為は墓穴だ。
(…迷っている)
 もし覚えているのなら、この状況をナルトはどう思うのか。
 サスケは唇を噛む。
 何故あの時、あの場で死なせてはくれなかったのか。何故この体は生きることに貪欲なのか。死んでいれば何もかもから解放されていたというのに。何度も繰り返した自問が再び浮かぶ。
 今、生きている以上、そんな自問は意味がない。
(ナルト)
 たゆらに許したために、ナルトとも体を繋げることになってしまった。それは決して本意ではない。たとえこの体が歓喜したのだとしても、本意ではなかった。それをサスケは苦々しく思う。ナルトの意志を無視したことに罪悪感を感じることが、今更すぎて笑えてくる。いっそのこと堂々とサクラから奪えば良かったのだろうか。ナルトと寝たのだとサクラに告げて、ナルトの行動を縛り付ければ良かったのだろうか。演技であれば、サスケにはそれが可能だったはずだ。なのにひたすら、居心地の悪さを甘受したのは何故か。
(…ナルト)
 戦場で、心を絡め取られたのはサスケの失態だ。このままでは本当に改心したのだと思われかねない。
 首を振る。
 ぽろぽろと、何かが崩れてゆくようだ。
 さらさらと、全てが指をすり抜けてゆくようだ。
 刑が執行されれば思い切りがつく。迷いも断ち切れる。だが、早くしないと、手を伸ばしてしまいそうで恐ろしい。ナルトに手を伸ばしてしまいそうで恐ろしい。

『残されるのが嫌なら、俺は絶対死なねえし』
『残していくのが嫌なら』
『お前が死ぬ時、俺も一緒に死んでやる』

 勝手に一人で死ね、その胸に突き立てた直刀が存外抵抗なく沈んでゆくのを見た、その時だ。
 何故。
 何で。
 絶対に死なないんじゃねえのかよ。
 どうせお前はその程度かよ。
 ふざけんな、と思った瞬間ナルトの体は傾いで───そして九尾が顔を出したのだ。

 気に入らなかった。
 九尾を押し戻した理由など、それだけだったのだ。

 ナルトが何もかも覚えているまま、記憶喪失の九尾が表に出てくることのないまま、意識を取り戻していたら。
 サスケは再会する始めから、憎しみと侮蔑をもって「ああナルト、お前が無事で良かった」と微笑みかけることが出来たのだ。処刑の判決が下りれば「本当に一緒に死んでくれるのか」と袖を引けたのだ。処刑でないのなら、この身が衰えるのに任せてナルトを束縛し「側にいてほしいと言ったのはお前だろう」と毒を囁くことが出来たのだ。
 たゆらの───九尾のお陰で予定は狂わされ、ナルトを取り戻したところから軌道修正を試みるも、成功した気はしなかった。
 それが良かったのか悪かったのか、考えているようでは失敗なのだと、サスケももう気付いている。抱かれた熱は、服が肌を滑るだけで思い出す。何もかも中途半端だ。これがうちは最後の一人とは情けない。
 だから───。
 だから早く、執行してほしい。
 取り返しのつかない呪詛をこの身に刻み、刻まれることで里に呪詛を返す。目を塞ぎ病室でじっとしているしかないサスケは、何も考えずにいることなど出来はしない。一人押し黙っていれば余計なことを考える。
 ナルトのこと、
 サクラのこと、
 カカシのこと、
 …たゆらのこと。
 考えたくはない。行動しないことが行動なのだ。なのにまだ迷っている。
 …迷っている。
 

*     *     *

 
 自分の意志でここに来た、とコハルは言った。それならば、今回自分がとった行動は不問なのだろう、とナルトは思う。
(俺は何をしたって言えるんだ)
 その後火影邸へゆき、ようやく巡ってきた面会の順番にカカシの前へ出れば、酷い顔色が待っていた。何も言えなくなる。カカシが火影代理であり続ける意味を知った今、自分の主張がただのわがままのようにすら思えてくる。
(…でも)
 現実の問題として、サスケの足を切らせたくはない。
「あいつの価値は、写輪眼だけじゃねえってばよ」
 切り落とされてしまったら、切り離された足首は捨てられてしまうのだろうか。捨てられ、腐ってしまうのだろうか。ぞくりと背が冷える。
「あいつはスゲエ忍者なんだ。写輪眼じゃなくたって、スゲエ忍者なんだ。なあ、先生だってサスケを復帰させるつもりだったんだろ? せっかくあそこまで回復したのに、その健康な足を切るって言うのかよ」
 任務のさなかに戦いで失うのとは訳が違う。
 だが、全ての責任を負っているカカシは冷ややかにナルトを見上げるのだ。
「ふうん? じゃあ、足がなくなって目も失明したら、サスケには価値がなくなるんだ」
「…ッ! んなこと言ってるんじゃねえってばよ!」
「だって、お前の言う『スゲエ忍者』じゃなくなるんだよ? 忍じゃないサスケには価値がないって言ってるのと同じじゃないの」
「上げ足取るのはやめてくれ、先生」
 拳を握る力に手が震える。
 何故カカシは急に、ナルトに対してシビアに対応するようになったのだろうか。理屈を考えるのは苦手で、ナルトは顔を歪ませる。激情を精一杯抑えてそう言えば、カカシはニコリと笑顔を作ってみせた。
「うんそうだね、お前は『友達』だから、サスケのことが大事なんだよね」
「…」
 とっさに───頷けなかった。
 おや、というようにカカシはナルトを窺う。ナルトは唇を噛んで俯いた。友達だから、というのは間違いではない。それだけではないと気付いてしまっただけの話だ。
「…ナルト」
 ふと柔らかい声で呼ばれて顔を上げる。
「サスケは何で無抵抗でここにいるんだと思う?」
「…」
 復讐だ。形を変えた復讐だ。だが、サスケがここにいる、ということが大事なのだとナルトは思う。それをカカシに説明する言葉がうまく見つからない。
「前に、『お前のためにここにいる』って言ってたじゃない? さすがに言葉通りだとは思えないけどさ、あながち嘘でもないんじゃないかって、俺は思ってる」
「…え?」
「形ばかりの拘束を振り払いもしないで、酷な判決を受け入れるのはさ。この里にいていい理由…もっとはっきり言うなら、お前の側にいていい理由が欲しいからなんじゃないかって」
「…」
 君のところに戻りたかったんじゃないかな、サイの声が蘇る。
「サスケはもう、そういう理由なしにはここにいられないんだろう。もし本当にそうだとしたら、お前のしていることはサスケに『出ていけ』って言ってるのと同じだと思わないか」
 ナルトは歯を食いしばった。
 もしカカシの言う通りだったとしても、そんな歪な絆で縛り付けたい訳ではないのだ。
「…先生。俺は、サスケが…好きだ」
「え? ああ…」
 唐突なナルトの科白に、カカシが不可解な顔をする。
「先生は、好きな奴にそう望まれてると思えたら、足切るのに賛成できんのか」
 ばかなことを訊いている、とナルトは思う。
 賛成など出来ないに決まっている。カカシもサスケを嫌いでこんな判決を出した訳ではないと、ナルトにももう分かっている。睨みつける先の火影代理は気の毒なほど窶れ、血色で言えばサスケより悪い。
「…出来ない、ね」
 ややあって返ったのは、七班のカカシの声だった。ごめん、とナルトは呟いた。
「俺、サスケに『罪人一人を気にかけてたら火影なんか務まらない』って言われた。先生には…務まるんだ。火影代理だから、無理にそうしてるのかも知んねえけど、でも先生には務まるんだ。でも俺は、そんな火影にはなりたくねえ。俺のなりたい火影は、そうゆうんじゃねえんだよ」
 じっと見据え、疲れているであろうカカシに敢えて同情は見せずナルトは言った。何故だか、カカシは笑んだ。
「うん、知ってるよ」
 知ってる?
 ナルトは眉間から力が抜けた。
「ついでに言えばさ、お前はまだ火影じゃないんだし、別に火影みたいな分別なんか期待してないよ?」
「先生、それって」
 今度はナルトが不可解な顔をする。だがカカシはナルトを遮るように、マスクの口元に人差し指を当てて制した。
「…でも、サスケの言うことも一理ある。サスケは重罪を犯したから捕らえられているんだ。今おとなしくしているからと言って、その罪がなくなる訳じゃない。罰は、犯した罪に対して下されるものだ」
「そんなこと、分かってるってばよ!」
「いいや、分かってるとは思えないな。じゃあナルト、仮にお前が判決を下していいとしたら、どんな刑にするんだ」
 ナルトは虚を突かれたように、半分口を開けたままカカシを見つめた。
 思いがけない問いだった。だが、それを考えたことがない訳でもない。こみ上げるものを抑え込みながら、ナルトは言った。
「忍に復帰させる」
「何?」
「里のために働かせる。里を脅かした代償に、今度は里を守らせる!」
 自分の言っていることが稚拙だとは、ナルト自身よく理解していた。だがカカシは『お前が火影だったら』とは言っていない。あくまでも、今そこにいるナルトの希望する答えを訊いているのだ。
 カカシはそれを真摯に聞き、再び問いかけた。
「上役たちに反対されたら? どう考えてもムシが良すぎるでしょ。また里抜けされたらどうするとか、生ぬるいとか、信用できないとか…言われるよ?」
「確かに、サスケを知らない奴はそう言うよな。でも俺は知ってるし、サスケがもう木ノ葉を裏切らねえって言うのも信じる」
「お前だけが信じてても周りは納得しないよ」
「ああ。だから、俺を信じて貰うしかねえ」
「ふうん。言うね。じゃああともうひとつ。サスケはいずれ失明するとサクラは言ってる。失明したら、忍に復帰させて働かせるのも難しいんじゃない?」
「目なんか…俺の目、片方やるってばよ」
 何の躊躇もなく、ナルトは言った。写輪眼でなくとも、サスケは優秀な忍なのだ。カカシは緩やかに目を見開いた。
「それ…サクラに聞いたの?」
「は?」
 ナルトには何のことだか分からない。
「いや、違うなら違うで別にいいんだけどさ」
「意味が分からねえってば、先生」
 だがカカシは首を振るだけだった。
 

*     *     *

 
 病院の休憩室で、ナルトはうたた寝をしていた。カカシとの面会のあと、再び木ノ葉病院へ戻ってきたのだ。今夜も泊まる、と言うと、サクラには変な顔をされた。
「あんた、明日は任務だって言ってなかった?」
「え? ああ、言ったけど。明日ここから出るってばよ」
「準備とかない訳?」
「持ってきた」
 ほら、と忍具のポーチを見せると、サクラは渋々といった体で頷いたのだ。コハルを無理矢理連れてきたことを、サクラは良く思っていないのだろうとナルトは思った。
 そして、休憩室で風呂の順番待ちをしていたのだ。ソファに腰掛け、火影の執務室でのやりとりを思い返しながら、ナルトは睡魔に襲われた。

 気が付くと、通路を歩いていた。
 見覚えならもちろんあった。
 封印の檻への薄暗い通路だ。夢を見ているのか、実際に九尾のいる檻へ近付いているのか、判然としない。記憶喪失から回復したとされて以来、九尾のチャクラを引き出そうと檻へ向かっても、迷うばかりなのだ。以前は気付けば檻の前にいた。それが、檻は見つからず通路を彷徨うばかりとなった。何故なのか、ナルトには分からない。封印が外れかかっているらしく、ヤマトからは「無理に九尾のチャクラを使おうとしなくていい」と言われている。いつまでだろう、ナルトは時折焦れた。いざという時に使えないのは困る。
 ふと、一巻きの巻物が前方に見えた。近付いてみると、黒ずんだ古い巻物だった。
 ああ───夢の方か。
 ナルトはそう思った。
 九尾のいない封印の檻、巻物に埋めつくされた不安定な夢。
 拾い上げると、更に前方に巻物が転がっているのに気付き、ナルトはぼんやりとそこへ歩いた。ふと通路の曲がり角の先を見れば、古びた巻物は数を増している。この先にあの檻があるのだ。ナルトは手にしていた巻物を床へ落とすと、檻を目指して巻物を辿った。果たして、檻はそこに存在した。
 そこには赤い巻物がある。
 記憶喪失だった間の記憶が。
 ナルトは吸い寄せられるように、不安定な巻物の波の上を、巨大な檻へと歩み寄った。
「…え、」
 その目が、誰かを捉えた。
 檻の中、巻物に埋もれるように座る人物。
 九尾はいない。
 誰か?
 あの金髪は、
「俺…?」

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