ゲシュタルトロス・フクス:17

17
 
 
 呆として、ナルトは薄暗い檻の中を見つめた。
 そこにも『自分』がいる。
 座り込み、視線を下へ落とし、恐らくはあの赤い巻物を見ているのだ。
 夢だとは思えど、まるで現実感がない。いつかあの巻物を初めて見た夢、それを今度は外側から眺めているような。ナルトはよろよろと檻へ近付くが、中にいる『ナルト』は巻物に集中しているのか、微動だにしない。
 不気味だ、とすら思う。
 自分の顔など鏡で見慣れている。だが、こんなふうに第三者の視点で自分を見るのは、多重影分身を使った時ぐらいのものだ。そして今、ナルトはその術を使っていない。
 よろめいて檻に掴まったその時、ようやく『ナルト』は顔を上げた。
 ゆるりと青い目がこちらを向く。
 ぞくりと悪寒が走った。首の後ろがちりちりと警戒を訴えている。これは俺じゃない、ナルトは本能で理解した。自分と同じ形だが、中身は違うのだ。
「お前…、誰だ…!?」
 じっと見合ったまま、答えはない。
 夢の中であるのなら、この『ナルト』が記憶喪失の時の自分であって、対面しているのだと思うことも出来る。だが違う、とナルトは感じる。得体の知れない、これは何だ。
 視線の先で、しかし『ナルト』は顔色ひとつ変えずに、再び巻物に目を落とす。
「おい!」
 それは、その巻物は───。
 ナルトはかっとなって檻へ足を踏み入れる。すると『ナルト』がようやく口を開いた。
「入るな」
 巻物から目を逸らすこともせず、ただ低く一言そう言い放つ。だが、そうはいかない。ナルトは歩きにくい巻物の上を勢いで走った。『ナルト』は巻物を手にしたまま立ち上がった。
 まろぶようにして、開けた床に着地する。立ってみれば、ナルトは鏡のように『ナルト』と向きあった。
「お前、誰だって訊いてんだってばよ! 何でその巻物見てんだ!」
 表情のない、と言うよりは陰鬱な『ナルト』は、睨むナルトをただ見返している。
「九尾」
 ぽつり、と『ナルト』は言った。
 何だって?
 怪訝に眉を顰めると、仕方なさそうに彼はもう一度口を開いた。
「己(おれ)は九尾だ」
「九尾…?」
 意外な名を聞いた気がして、毒気を殺がれる。
 確かにここは九尾を封じた檻である。だが、床はあるはずのないもの──夥しい数の巻物──で埋め尽くされている。そして何より、この巨大な檻に封じ込められているはずの、巨大な妖狐がいない。つまり夢だ。ここは夢の中の、封印の檻に似た場所なのだ。
 ナルトはそう思っていた。
「出ていけ。ここは己の檻だ」
「…変だってばよ。じゃあ何でお前、俺の姿なんだ」
「己は知らない」
「知らない? 何だよそれ。つうか! それ返せよ!」
 何故なら、それは自分の記憶だからだ、とばかりに赤い巻物を指さした。九尾を名乗る『ナルト』は、手にしている巻物を掲げ見た。
「これは己の記憶だ」
「意味分かんねえ。それってば、俺が記憶喪失だった間の記憶だってばよ」
「それは間違いじゃない。でもこれはお前ではなく己の記憶だ」
 言われている意味が全く理解できない。『ナルト』は昏く冷たい目をナルトに向けた。
「記憶喪失なのは己だ」
「え?」
「お前はここで…眠っていただけ」
 まるで、鏡に向かって禅問答でもしているかのようだった。
 眠っていただけ?
「…待て。俺は…記憶を失ってなかった…?」
 ただ眠りから覚めただけのような感覚だったと、思ったことを思い出す。それは真実だったのか。眠っていた時間、記憶喪失の九尾がナルトとして過ごしていた?
 ほっとする部分は確かにある。
 だが動悸が始まった。
 ごくりと唾を飲み下す。
 そっとサスケの顔を包む自分の手、吐息を交換できるほどの至近距離。腕の中の痩せた体、解けた包帯、覗く潤んだ瞳。それらは───。
「…俺の…記憶、じゃない…?」
 九尾は『ナルト』の姿でナルトを見ている。冷ややかに見つめている。いや、激しい怒りをもって見つめている? 当たり前だ、とナルトは思った。記憶を勝手に覗き見られたのだ。しかもそれを、ナルトは自分の記憶だと思い込んでいた。
「見たければ見てもいい。でも、檻からは出ろ」
 見てもいい?
「お前の記憶なんだろ」
「そうだ。でも、お前が目覚めて記憶喪失だったなら…お前が体験していたはずの出来事だ」
「ふざけんな、そんな『もしも』はねえよ」
「…サスケは己をお前だと思って接していた」
「それでもだ」
 仮に本当に、目覚めた自分が記憶喪失だったとしても。サクラの言うように自分がサスケを恐れたとは思えない。九尾の得た記憶は九尾だからこそのものだ。胸のあたりがざわざわと、不快感に襲われる。胸元を掴んで遣り過ごす。
「…なあ、もしかして…この黒い巻物も、お前の記憶なのか」
「そうだ」
 古く黒ずんだ巻物、新しい赤い巻物。
 自分が見たのは後者、それが九尾が記憶喪失で目覚めて以降のものなのだと、いかなナルトでも理解する。
「ナルト」
 九尾はナルトの声で言った。
「早く出ていけ。でないと縊り殺したくなる」
「…」
「縊り殺して、お前に成り代わりたくなる」
 青かったはずのその目が爛々と、赤く揺らめいていた。静かに襲い来るような禍々しいチャクラ、それは普段の九尾のものとは違う。何故だ、ナルトは九尾を凝視した。
 何故だ。
 何故そうしないのか。
 出ていけと言いながら、突き飛ばしもしないのは何故だ。縊り殺したくなると言いながら、その手を伸ばしもしないのは何故だ。九尾であればためらいなどありようもない。九尾の記憶を失ったゆえ? いや、違う。そもそも、彼がこの檻をテリトリーのように言うのはおかしい。九尾はここを出たがっていた。それに、以前ここへ来た時には九尾はいなかったのだ。その間、彼はどこにいたと言うのか。
 血の気が引いた。
 表に出ていたのだ、とナルトはようやく気付いた。
 初めて無人のここへ来たその翌朝、自分がどこにいたのかを思い出す。留置場、サスケの牢の中にいたのだ。どうやって侵入したのか、覚えがないのも当然だ。牢へ侵入したのは彼だったのだ。じわりと冷たい汗が背を滑る。それならば、牢から病院へ戻ってきたサスケを抱いていたのは、
「お前…が、サスケ、を、」
 舌が上手く動かない。
 胸のあたりを掴んだ手が力を増す。
 不快感、
 違う、
 不愉快、だ。
 向かい合う九尾の赤い目は、いやが応にも写輪眼を思い起こさせる。影分身で牢に忍び込んだ時の黒い瞳、あの時サスケは何と言った?
「サスケは───知って、いるんだな…?」
 それ、ただの夢だぜ。
 夢の中で、記憶喪失だった時のことを思い出したとサスケに言った。それに対してサスケは、ただの夢だと言い切った。その記憶がナルトのものではないと知っていたのだ。
「お前が九尾ってことも、記憶喪失のことも」
 不意にことの成り行きを、ナルトは悟った。
 ここで眠っていただけ、という自分をサスケが起こしたのだ。かつて大蛇丸のアジトで、サスケはこの檻へ来たことがある。その時のようにここへ来て、九尾を押し込め、自分を起こしたのだ。ナルトが目覚めた時、そこにサスケはいなかった。すぐに牢に収監されたせいだ。
 待て、脳裏で警鐘が鳴る。
 サスケがそれを黙っているのは何故だ。
 九尾はこんな至近距離にいて、何故ナルトを害さない。サスケと九尾は結託して、何かを企んでいる? いや、違う。それならナルトを起こさなければ良かったのだ。起こさないまま、成り代わった九尾と共に里を襲えば良かったのだ。
 それなら何故黙っている?
 庇っているのか。
 九尾を。
 いきなり疎外感に見舞われる。
 目の前の九尾はじっとナルトを見据えている。怒り、それよりも恐らくは、嫉妬。
 檻を出たい、ではなく『成り代わりたい』、それはサスケの側へゆくため? なのに九尾はそれをしない。何故だ、疑問が渦巻く。だが九尾の嫉妬が何に起因するのかは分かる。
「…お前、サスケのこと、好きなのか」
 九尾は僅かに首を傾げた。
「己の全てだ」
「全て?」
「己はサスケに従う」
 シンプルだ、とナルトは思った。それでも不愉快さは治まらない。サスケの態度はどう考えても、九尾に対する方が自然だ。サイやカカシの言うように、自分のところへ戻りたかったのだとは思えない。自分と相対した時のサスケは奥底に憎悪と呪詛を隠している、とすら思う。
 それでも、サスケはここにいるのだ。
 余計なものに惑わされてはいけないと、ナルトは思う。
「サスケはお前を選んでいる」
 九尾は続けて言った。
「…え?」
 選んでいる?
 何かの中から選ばれた?
 違う、ナルトは九尾の目を見た。
 九尾かナルトか、そういう意味だろう。
「お前はサスケに従わないのか」
 薄暗い檻の中で、九尾の赤が炎のように揺らめいている。気に入らないだろう、と思いながらナルトは首を振った。
「従わねえよ。俺とサスケはそうゆうんじゃねえ」
 檻の空気の、重さが増した。
 九尾のチャクラが充満してナルトを覆い尽くす。だがナルトは構わなかった。
「俺とサスケは対等なんだ。どっちか強い方に従うとか、そうゆうんじゃねえんだよ」
「…分からない」
 九尾は目を眇め、手にした巻物を握り締める。そうだ、九尾は記憶喪失で、サスケを酷く頼りにしているのだ。
「お前、この檻…出られるんだろ」
「ああ」
「前は出たがってた。何で出ねえんだ。いや…何回かは出てるだろ?」
「俺の意志では出ていない。お前が俺を弾き出した」
「えっ、俺が? どうやって?」
「…己は知らない」
 九尾は『ナルト』の声で淡々と答える。
 自分がここで眠っている間、この『ナルト』が凡そ一ヶ月に渡って表へ出ていたのだ。忍として優秀だった、という周囲の声が脳裏を掠める。
「…サスケが」
「え?」
「ここにいろと、己に命じた。だから己が、自分の意志でここを出ることはない」
 頼りにしている?
 これでは隷属だ。いや、依存だろうか。ナルトはじっと九尾を見返した。嫉妬の目で睨むということは、九尾がここにとどまり続けているのは、本当は不本意なのだ。ナルトは自嘲した。嫉妬の目を向けているのは彼だけではない。
「…サスケは、他に何か言ってたか?」
「お前には関係ない」
「なくはねえだろ。この檻は俺の腹ン中なんだぞ」
 九尾は押し黙るが、目は赤いままだ。
「…サスケが何考えておとなしくしてんのか、お前は知ってんのか?」
「己は知らない」
「何も訊かなかったのかよ」
「サスケは答えない」
 訊いたのか。
 九尾が苛立たしげに微かに口元を歪めるのを、ナルトは見逃さなかった。
「このままだと、あいつ足切られちまうんだってばよ」
「知っている。サスケはそれを受け入れている」
「俺は嫌だ! お前、何とも思わねえのかよ!」
「それならサスケを連れて里を抜ければいい」
「それじゃ意味がねえんだ!」
 九尾が、明らかに不愉快そうに眉間を寄せた。それは初めて見る、感情らしきものだった。その時、不意に後ろから肩を掴まれた。
 
 
「ちょっと、ナルト?」
「え───?」
 振り返ると、サクラが怪訝な顔で覗き込んでいた。肩から手が離れて、檻から自分を引き戻したのが彼女だと知れる。
「考えごとでもしてた? 起きてるみたいなのに、何度声をかけても返事もないんだもの」
 仮死状態からこの世に戻ってきたように動悸が始まる。
 そこは病院の休憩室だ。サクラが言うように、ナルトはソファに座っていながら身を乗り出すようにしており、背を預けてはいなかった。
「サクラちゃん…」
「お風呂空いたわよ。あんたが最後だから、終わったら…って、ちょっとナルト!?」
 ナルトはサクラの声など、耳に入らなかった。休憩室を飛び出す。
 夢ではない。
 あの檻は夢の中のものではなかった。
「サスケ!」
 病室の前に立つ見張りが、ナルトの剣幕に驚いたように腕を掴んで制止する。ドア口からサスケを見遣るが、目を隠されたサスケの顔からは、やはり彼が何を思うのかなど計りようもなかった。

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