ゲシュタルトロス・フクス:18

18
 
 
 サスケはベッドの上に身を起こし、物思いに耽るように窓の方を向いていた。常夜灯が点いている。もう眠るところだったのだろうか。
 まるで見えているかのような、その佇まい。だが窓の外を眺めているようであっても、窓は固く閉じられ厚いカーテンが引かれている。気配を消すことをしないナルトが慌ただしく近付いてくるのを、気付かないはずもないくせに、声をかけられるまで振り向くこともしないのだ。ドア口で息を詰め、ナルトは歯を食いしばった。
「ちょっと、どうしたのよ!」
 追ってきたサクラに、ナルトは振り向けない。サスケから目を離すことをしたくなかった。
「…サクラちゃん。悪いけど、二人にしてほしいんだってばよ」
「え?」
 目を向けることもしないままそう告げて、ナルトは一歩踏み入った。見張りがちらりとサクラを窺い、ナルトの腕を放す。ナルトはサスケと向き合うのに必死で、サクラが厳しい顔をしたことに気付かなかった。
「ダメよ」
 強ばった声に、しかしナルトは従わない。更に歩を進めるのを、サクラは見張りの代わりに腕を掴んで制止した。
「サスケ君は、眠る義務があるの。体力を回復させなきゃならないのよ」
「そんな時間かけねえってば…」
「ダメって言ってるのが分からないの!?」
 鋭く言われ、指が食い込むほど腕を強く掴まれても、ナルトはただサスケを見つめていた。
「ナルト。サスケ君はね、ゆうべ眠れてないの。何でだか分かってるわよね」
 サスケと見つめあうのに忙しいナルトの脳に、じわりとその科白が浸透した。殺気すら感じて、ナルトはようやくサクラを振り向く。突き刺す視線が待っていた。
「サクラちゃん…」
 知っているのだ。サクラはゆうべここで何があったのかを知っている。それを悟るが、何故かナルトには動揺はなかった。
「体力が戻らないと、手術に耐えられないのよ。話なら昼間したらいいじゃない」
「いや、任務あるし…、つうか…」
 手術?
 ざっと血の気が引く。何の手術だ、まだどこか悪いのか? いや、違う。刑の執行のことを言っているのだ。ナルトはサクラの手を振り払い、その両肩を掴んだ。
「刑が、執行されんのか。いつ!?」
「まだ決まってないわ。でもいつ執行されるのか分からないんだから、体調は整えておかなきゃ…」
「それでいいのかよ!!」
 無慈悲な医者のように口を利くサクラに、ナルトは焦れた。
「サクラちゃんはそれでいいのかよ!! サスケが足切られちまっても、『仕方ない』で済ませられんのかよ!?」
「いい訳ないでしょ!!」
 負けじと怒鳴り返す、サクラの拳は震えていた。だがナルトはそれには気付けない。
「でもね! 私はサスケ君の主治医なの! サスケ君の体の全てに責任を負ってるの! すべきことをしないで死なれたらたまらないわ!!」
「責任!? 何でそんなに冷静なんだってば!!」

『───サスケを連れて里を抜ければいい』

 カカシの態度、サクラの正論、九尾の誘惑。
 ナルトは酷い焦燥感に駆られた。
「…冷静ですって?」
 凍てついた翡翠色に、ナルトはたじろいだ。サクラはサスケを好きなはずなのに、何故こうも職務に忠実にいられるのだろうか。
「冷静になりもするわよ。あんたは何なの? わがままを喚き散らすばっかりじゃない」
 激しい怒りを内包したまなざし、それは思い通りに行動することが出来ないサクラの胸裡を表している。口を開きかけて、ナルトは顔を歪ませた。たった数分前、同じ表情をあの檻で見たばかりだった。
「…丁度いいわ。ナルト、あんたこれからカウンセリング受けて貰うから」
「え…?」
 数瞬の沈黙をどう捉えたのか、サクラがため息もつかずにナルトを見据えて言った。
「あんた、前に覚えのない行動したって言ってたでしょ。記憶障害には違いないし、もしかしたら解離性同一性障害かも知れないから…」
「…サクラちゃん、それは…もういいんだってばよ」
「え?」
 その原因なら、先ほど知った。どういう意味よ、というサクラの声は耳を素通りする。ナルトの手がずるりとサクラの肩から落ちる。
(俺は結局)

 ずっと茅の外だったのだ、と思い知った。

「…サクラ」
 不意に、サスケの声が静かに割って入った。のろのろと振り返ると、サスケがサクラに笑みを向けていた。
「俺も…ナルトと話したい。少しでいいんだ。…駄目か?」
「サスケ君…」
 どこか甘えるようにさえ聞こえるサスケの科白とは裏腹に、怪訝なサクラの声は固い。その笑みが作られたものであることは明白だった。
「…分かったわ。でも本当に少しよ」
「サクラちゃん、サスケの目隠し、外して話してえんだけど…」
「あんたね…」
「頼むってば」
 何も窺えない状態ではなく、たとえ何も窺い知ることなど出来なくとも、ナルトはサスケの目を見て話したかった。サクラは睨み上げるが、すぐに目を逸らすとサスケへと歩み寄った。
「…すまない、サクラ」
「何かあったら、ナースコール押して」
 手際良くサスケの頭部から包帯を解き、サクラはナルトを横目で見た。
「言っておくけど、病院の周囲は固めてあるから。変な気は起こさないことね」
「…ありがとう、サクラちゃん」
 変な気、というのは、サスケを攫って里を抜けるような事態のことだろうか。九尾の囁きが耳に谺する。あの九尾が『ナルト』としてここにいた時に、サスケが望むなら一緒に里を抜けると言ったのを、サクラも聞いている。
 釘を刺すことで、彼女は二人きりの面会を許可してくれたのだ。恐らく半分は本気で言っている。たとえ本人が拒否しようとも、このサスケを抱えて連れ去るなど造作もないと、サクラも承知しているのだ。
 今の九尾の思考はシンプルだ。
 それゆえにナルトを誘惑する。
 ナルトは唇を噛んだ。
 逃げ出すのでは意味がない。
 意味がないのだ。
 包帯という封印を解かれたサスケがサクラを見送り、そしてナルトを見る。目に慣れた常夜灯の橙色が、昨夜のように、サスケの輪郭を艶めかしく浮かび上がらせていた。
 

*     *     *

 
 背後でドアが閉められ、ナルトはゆっくりとベッドへ歩み寄った。穏やかとも取れる黒い瞳がオレンジの光を弾いて、それを見守っている。
 勢い込んで来たというのに、何から話せばいいのか分からない。
 ベッド際に突っ立って、しばらく黒い瞳と見つめ合う。だが、どんなに見てもサスケが何を思うかなど、やはり分からないのだ。傍に椅子はあったが、ナルトはベッドに腰掛けた。
 手錠のかかった手首が毛布の上に置かれている。公に手錠を外されるのが足を切り落とされてからでは遅い。
 腕を伸ばせば簡単に触れられる距離で、ナルトは何も出来ずにただサスケを見た。二人を隔てる檻はなく、サスケの視界を遮るものもないというのに。痩せたサスケの白い顔が、オレンジ色に染まってほんの少し健康に見えることも皮肉だった。
「…たゆらに会ったのか」
 口火を切ったのはサスケだった。
「タユラ…?」
 ナルトは心当たりのない名前に一瞬とまどって、だがそれが九尾を指していると気付いた。
「ああ、さっき…会った」
 サスケの察しの良さは変わらない。先ほどサクラが記憶障害だと言った、ナルトの『覚えのない行動』、記憶の欠損。それに対して「それはもういいんだ」とナルトは答えた。加えて、ここに駆け込んできた様子。サスケはそれだけで、ナルトが九尾に会い真実を知ったと理解したのだ。
 それを、あのタイミングで遮ったということは───。
「あいつのことは誰にも言わない方がいい」
 やはり、記憶喪失の九尾を知られることを、嫌ったのだ。恐らくサスケは誰にも真実を打ち明けてはいない。ナルト本人に対してまでもそうだったのだ。
「…何で、って訊いてもいい?」
 念のため、というように見つめれば、欠片も動揺のない目が見返してくる。
「たゆらは完全に封印される。お前も里に拘束される。尾獣を狙う奴らにとって、記憶のない九尾は楽に捕らえられると考えてもおかしくない」
「…それだけ、か?」
 心の内を読み取ろうとするように目を覗き込めば、何故疑うのだと言わんばかりに小さく首を傾げる。
「記憶喪失の九尾が封印の檻を出入り自由だなんて知れたら、里の連中がどう思うか…分かるだろ」
 分かる。
 怖がるだろう。そしてかつてのように、ナルトを『九尾』として見るだろう。今の九尾を封じようとするのは目に見えるようだ。いざという時に九尾のチャクラを使えないナルトを『保護』すべき、と言い出す輩も出現するだろうことも予期できる。
 だが、それだけでは───ないだろう。
 ナルトは俯いた。
「…なあ、『タユラ』って何」
「…」
 唐突な問いに、サスケは一瞬とまどいを見せた。
「九尾の名前? 俺、九尾は『九尾』なのかと思ってたってばよ。それに、さっきあいつ、自分のこと『九尾』って言っただけだった」
「…そうか」
「お前さ、あいつのこと庇ってんの…?」
「何?」
 意外だ、というように聞こえたのは、ナルトの希望的観測だろうか。ああバカだな、と内心で毒付く。
「なあ、何でだ? あいつを庇うぐらいなら、俺を起こさなきゃ良かったんじゃねえか。あいつ、優秀だったんだろ? 九尾だってことを黙ってんなら同じじゃねえか」
 ナルト、本気で言ってんのか、バカなこと言うな、九尾は九尾だ、お前じゃねえ。そんなことを言って欲しいのだという自覚が、ナルトにはあった。もっと言えば、九尾より自分が、サスケに必要とされているのだと思いたかったのだ。
「サクラが…」
「…え?」
 だが、サスケの口から出たのはそんな科白だった。
「サクラが可哀想だろ」
 サクラ?
 きょとんと顔を上げると、うっすらと人形のように綺麗な笑みを湛えたサスケと目が合った。
「お前、サクラといい感じだったみたいじゃないか。サクラも何とか記憶を回復できないか、必死で調べてたんだぜ」
 何を言われているのか、よく分からない。
「そもそも、お前がいけないんだ。サクラはずっと呼んでいたのに、お前が起きないから…記憶喪失のあいつが、自分が『ナルト』なのかと思って表に出てきたんだ」
 サクラ?
 サクラがずっと呼んでいた? なのに、気付かず眠ったままだった?
 いや、サクラといい感じだったとは、どういう意味だ。サクラのために九尾を檻へ残し、ナルトを起こしたと言うのか。
「…ナルト。悪かったな…その、ゆうべ、」
 言い淀んだかと思うと、黒い目が逸らされる。
「え?」
「…目、見えないと…あいつがお前の体を使ってるってことを、つい忘れる」
 ナルトは手錠ごと、サスケの手首を掴んだ。
 どういう意味だ。
 それはどういう意味だ。
 サスケが必要なのは『タユラ』であって、ナルト本人ではないのか。『タユラ』を必要としているのに、サクラのためにナルトを起こしたと言っているのか。体を許したのは『タユラ』にであって、ナルトにではないということか。九尾の言った「サスケはお前を選んでいる」という言葉も、『タユラ』と比べてのことではなかったと言うのか。
「サスケ」
 声は喉に張り付いたように掠れた。
「お前、そうまでして里にいるって言うのは、タユラのためなのか」
「え?」
「俺のためって言いながら、本当は、」
「…ナルト」
 サスケは戸惑ったように僅かに腕を引く。
 逃がさない、ナルトは手に力を込めた。サスケから完全に笑みが消え、ナルトはそのことに安堵すらする。すう、と眇められた目が冷ややかにナルトを見た。
「サス…」
「たゆらは俺に従うと言う」
 ナルトを遮ったサスケの声は、低く静かにナルトに囁いた。
「だが記憶が戻った時どうなるか、誰にも分からない。その時のために、俺はここにいる」
 ナルトの唇がわなないた。
「それを『たゆらのため』と言うなら間違いじゃない。あいつが永遠に九尾の記憶を取り戻さないなら、それに越したことはないがな。俺の目だっていつまで保つのか分からないんだ」
 タユラのため、それはつまりナルトのためであるとサスケは言っている。
(俺の、ため)
 即ちそれは、
(…俺のせい?)
 そういうことではないのだろうか。握り締める手首はぴくりとも抵抗はない。ああやはりこれは呪詛なのだ、とナルトは思った。里に対するものではない。ナルトに対する呪詛なのだ。
「…サスケ」
 自分でも顔が強ばっているのが分かる。
「九尾のことは…誰にも言わねえ。お前を信じる」
「…そうか」
「でも、お前の足を切らせたくもねえ」
 手錠から手を離し、毛布越しに脚に触れる。ぴく、と今度は反応を見せるサスケに、構わずナルトは顔を寄せた。
「おい…」
「お前が好きだ」
 引き気味のサスケに覆い被さるようにして、ナルトは言った。
 サスケの目がゆっくりと見開かれる。予期していなかったことなのだろう、そう思うと遣り切れない。『タユラ』とナルトは、サスケの中では全く区別された存在なのだ。それは事実ではあるのだが、タユラがナルトの姿を取っていることさえサスケには関係ないのだと思い知らされる。
「お前は、俺のこと信じられるか?」
 驚愕が終息するように、サスケは無表情を取り戻した。
「…お前の何を信じろって?」
「俺の気持ちを」
 サスケに笑みが浮かんだ。
 侮蔑の笑みだ。だがナルトは目を逸らさなかった。
「それ、サクラの前で言えるなら信じてやってもいいぜ」
「ん。分かった」
 本気で言われている訳ではないと、理解した上でナルトは頷いた。枕元のナースコールのボタンを押す。ぎょっとしたようにそのスイッチとナルトを見比べるサスケは、素のようで懐かしさを覚えた。
「おい、ナルト…」
 ほんの数秒でぱたぱたと足音が大きくなる。形ばかりのノックの直後に、ドアは大きく開かれた。
「サスケ君!」
 飛び込んできたサクラの顔を、ナルトは一生忘れないだろう。愛情と使命感を全てサスケに捧げているのだ。冷静だって? 何てバカなことを言ったのだろう。
「サクラ、すまない、何でもない…。ちょっとぶつかっただけだ」
 慌てた素振りを最大限抑えたサスケの言い分は、しかしサクラには通用しなかった。ベッドの上、ナルトは覆い被さるようにサスケを壁に追い詰めているのだ。サクラの目が厳しく吊り上がった。
「…どきなさい、ナルト」
「サクラちゃん。俺、サスケが好きだ」
 サスケが制止の隙を窺うよりも早く、ナルトは言った。唖然とサスケの目がナルトの横顔を見上げた。
 だが、サクラに動揺は見られなかった。当たり前か、とナルトは脳裏で思う。昨夜の出来事を、サクラは承知しているのだ。
「好きなら何をしてもいいの? 早くどきなさい」
 つかつかと歩み寄りながら、ナルトからサスケへと視線を移す。サクラは既に医者の顔だった。
「大丈夫? サスケ君」
「ああ…別に何でもなかったんだ、本当に…」
 立ち上がったナルトを押し退けて、サクラはサスケの顔を上げさせて目を覗き込む。耳の下の動脈に指先を当て、しばらく脈を診て、ほっとしたように微笑みかけた。
「いつもより少し脈は速いけど、正常値の範囲ね。安静にしてればすぐ治まるわ。…どう? 眠れそう?」
「…ああ」
 一瞬ナルトを窺ったのを、サクラは見逃さない。立ち上がって振り向くと、サクラは真正面にナルトを捉えた。
「今日はここまでよ。話はまた明日にしてちょうだい」
「…分かったってばよ。ありがとな、サクラちゃん」
 ナルトはサクラの向こう、サスケを見た。
 非難するようなまなざしが見返してくる。口はへの字で、振り切るように顔が背けられた。まるで子供のような仕草に、ナルトは幾許かの安堵を覚えた。

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