ゲシュタルトロス・フクス:19

19
 
 
「…サクラ、ナルトの言ったことは…気にするな」
「え?」
 ナルトを追い出した病室で、辛うじてため息を飲み込んだサクラの後ろ姿に、サスケが気まずそうに声をかけた。サクラは一瞬意味が分からない。
 振り向くと、サスケが所在なげに項垂れるところだった。
「ちょっと頭に血が昇ってただけだろう」
「サスケ君…」
 それは、何故冷静でいられるのかと詰られたことだろうか。そんなふうに気を遣われると、どこかくすぐったい。だがすぐに思い直す。サスケはナルトのフォローをしているつもりなのかも知れない。
「大丈夫よ。あんなのいちいち気にしてたら医者なんかやってらんないんだから」
「…そうか」
 とても納得したとは思えない様子で、サスケは手錠の辺りをじっと見つめる。目を合わせたくないのだ、とサクラは感じた。
 そこでようやく気付く。
 ナルトがサスケを好きだと言った、そのことに狼狽えているのだ。愕然とナルトを見上げていた瞳を思い出す。サスケはそれを隠したかったのだろう。サクラに対して、と限定してのことではなく、誰に対しても。
 サクラは不意に、胸を締め付けられた。自分の恋心が報われることはない、原因のひとつはもちろんそれだ。だが、全てを諦めているサスケは、恐らくナルトを繋ぎ止めることも考えていないのだろう。刑が執行されるなら、手錠は外されても身柄はほぼ研究所預かりとなる。この病室へは睡眠のためだけに戻るようなもので、自由などありえない。面会対象者も今より制限されるはずだ。つまりナルトとも、短い逢瀬すら叶わなくなるかも知れないのだ。そしてサクラは主治医として、サスケに会えなくなるということはない。
(…ほんと、何で…私じゃないのかしら)
 どんな事態に陥ろうとも、どんな結果が待ち受けていようとも、サクラはサスケを支え続ける決意がある。だが、心までは、埋めようがない。誰にとってもそうであるように、ナルトの代わりなど誰にも務まらない。
 二人の関係がいつ始まったものなのか、サクラは知らない。或いはナルトを突き放すための、作られた態度だったかも知れないとも思う。包帯を奪われたサスケが、こうして目を合わせることも恐れているのだとしたら。
「…ねえ、サスケ君」
 サイドテーブルに置いた包帯を取り、そっとベッドへ腰掛ける。目が上がるのを待って、サクラは笑んだ。
「信じて、ナルトのこと」
「…何?」
「あいつが必死に駆けずり回ってるの、無駄じゃないと思う。カカシ先生だって色々考えてるみたいだし」
 そして、いのやシカマルたちといった同期が、減刑のために動いている。
 だがサスケの浮かない顔は変わらなかった。当然か、とサクラは曖昧に笑う。サスケ自身は減刑など望んでいないのだ。それは恐らく、本心から。
「サスケ君はとにかく…ちゃんと眠って、たくさん食べて、体力を取り戻すことを第一に考えてね」
「…ああ」
 そうしてサスケは目を閉じる。包帯を要求しているのだ。その様子だけ見ればまるで殉教者だ。怒りすら純粋で美しい。彼は本当は、忍には向いていなかったのかも知れない。
 サクラは全てを微笑みに隠して、サスケの目に包帯を巻いた。
 

*     *     *

 
 抗議は日に日に膨れ上がった。
 思惑通りとはいえ、通常の職務に支障を来していることにはため息を禁じ得ない。カカシは額を支えて、頭痛と吐き気を伴う眠気と戦っていた。ここしばらくまともに睡眠を取っていない。最後にベッドで眠ったのはいつだろう?
「…はい、次、どうぞ」
 次の面会者を通すまでの十秒も、貴重な休憩時間となっていた。
(サクラに怒られるな…)
 ちゃんと眠って下さいと小言を言う彼女は、七班結成当時の幼さを残しているというのに、今や頼りになる医療忍者だった。サスケの心配のついでにカカシの様子まで気にかける。
 面会人と面会内容は全て書記によって記録される。
 積み上がる書類に、事務も悲鳴を上げているだろう。他の部署から応援人員も来ている。現在、木ノ葉は『うちはサスケ』の処遇問題で持ち切りだ。サクラがうまくやったのだ、とカカシは思う。上役たちからは早くも苦情が届いていた。彼らも、罪人一人を巡っての抗議活動にしては規模が大きすぎると理解しているのだ。だがカカシは「こちらも同様です」と、上役たちへの警備に人員を割くことはしなかった。
「失礼します」
 顔を上げると、入ってきたのはサイだった。
 額当てをしていない。
「サイ…。え、お前も面会なの?」
「はい」
「参ったねえ…」
「冗談です、と言いたいところですけど」
「…」
 怪訝に見上げると、何を考えているのか読めない笑顔が近付いた。執務机に両手をついてカカシを覗き込む。
「ナルトを避けているそうですね」
「避けてる? 俺が?」
 カカシはとぼけてみせた。先日の面会以降、ナルトと直接話す機会を潰しているのは、だがもちろん作意だ。サイは不意に真顔になる。
「彼に何をさせたいんですか? 抗議行動を起こさせたいだけなら、別に冷たく当たる必要はないと思いますけど」
「いや、だから、避けてないし冷たくしてるつもりもないよ」
「分からないな。ナルトにだけ厳しくする理由」
 カカシは大袈裟にため息をついた。一般の面会者の前ではおくびにも出さない、それは演技ではなく本気のため息に違いない。サイは良いタイミングで来てくれた。
「これ、何の面会な訳? ていうかさ、お前もナルトも、明日から火の国で二週間の任務でしょ。準備とかしなくていいの?」
「ボクはもう済んでます。ただ、ナルトが…」
「ゴネてるのは知ってる。サスケの側を離れたくないみたいだからな。でもさ、戦力を遊ばせておけるほど今の木ノ葉に余裕なんかないの、分かるよね?」
 サイはじっとカカシを窺っている。真意を計りかねているのだろう。
「サイ、お前さ、ナルトのこと頼むね」
「はい?」
「サスケのことで何か噂を聞いても、任務放り出して帰ってきちゃわないようにさ」
「…」
 サイの目が眇められる。す、と執務机から身を引いた。
「分かりました。失礼します」
「あ、もういいの?」
「はい、結構です」
 まるで、見合った敵の前から慎重に撤退するように、サイは執務室を出ていった。
(うまく…伝わった、かな?)
 カカシは静かになった部屋で、先ほどと同じように額を押さえる。ゆっくりと二呼吸してから頭を持ち上げた。
「はい、次どうぞ」
 

*     *     *

 
 ナルトは自宅で任務の準備をしている。サイは少し考えて、ナルトのアパートへは行かず木ノ葉病院へ向かった。医局でサクラを捕まえる。
「サイ、何? どうしたの」
「訊きたいことがあって…時間は取らせないから、」
 囁くと、サクラは訝しげに頷く。
 そのまま腕を引いて、サクラは人通りの少ない階段の前へとサイを促した。
「何かあった?」
「サスケ君の刑の執行って、決まったら君にも連絡がくるのかい?」
「え? ええ…」
 主治医だもの、と呟くサクラはサイに合わせて小声になった。何を言い出すのかと、胸に抱いたカルテを握る手に力が込められる。
「執行日の、どれくらい前に?」
「さあ、そこまでは」
「ボク、今カカシ先生に会ってきたんだ。それで、気になること言われて…」
 サクラの眉間が寄せられた。
「ボクとナルトは明日から二週間の予定で任務に出るだろ。その時に、サスケ君のことで何か噂を聞いても、任務放り出して帰らないように気をつけていろって」
「それって…」
「ナルトはずっと、九尾の封印の問題で長期任務には出されてなかっただろ? 二週間じゃ長期とまでは言えないけど、何か含みを感じるって言うか…」
「…もしかしたら、その二週間の間に執行されるかも知れないってこと…?」
 サクラは思案するように視線を横へ流す。
 その時、良く知る気配が背後に近付いてくるのを気取り、サイははっとサクラを見た。当然のようにサクラも気付いている。だが彼女は、何事もないように言葉を続けた。
「一番うるさいナルトのいない間に…っていうことかしら」
 その声は先ほどまでとは変わり、小声ではあっても忍んではいない。
「…判決が公布されてから、抗議活動はずっと続いてる。上層部がそれを煩わしく思って、執行を早めるなんてことはあると思うかい?」
「ありえるわ、充分…」
 そしてサクラは、はっとしたように顔を上げた。サイは後ろから、肩を掴まれていた。
「ナルト!」
 ぎりぎりと強い力で振り向かされる。
 蒼白のナルトがサクラを見ていた。睨んでいる、と言うのが正しいほどの激しい瞳だった。どういうことだ、と掠れた声がサクラを質した。サクラは口を噤む。するとナルトはサイを見た。ぞくりと背を何かが走る。それは悪寒だ。九尾化していないナルトに悪寒を感じることなど、サイは初めてだった。
「任務放り出して帰らないようにって、俺のことか」
 サイはサクラの意向を確かめる余裕もなく頷いた。
「一番うるさい俺が任務でいない間に執行すんのか」
「わ、分からない…。そんなことは言われていないよ。ただ…カカシ先生に、サスケ君のことで何か話を聞いても任務を放り出さないようにって、君のことを頼まれて…」
 掴まれた肩は悲鳴を上げている。
 だが、そのナルトの手からは怒りと焦燥がはっきりと伝わって、サイは振り払えなかった。掴まれた時と同様、唐突にその手は離れた。
「ナルト!」
 いけない、サイがとっさに呼び止めた声など、ナルトには届いていないのだろう。廊下を走り去る後ろ姿を追おうとする。が、サクラの手がそっとサイの腕を取るのだ。
 サクラはじっとナルトの走り去った廊下を見つめていた。
「いいのよ」
「サクラ…?」
「たぶん、これで合ってる」
 合っている?
 怪訝に見つめると、サクラは僅かに俯いた。
「カカシ先生はあの刑の執行を望んでいないのよ」
「え?」
 サクラの言に、サイは軽い驚きを目に表した。
「…先生は今、火影代理だから…個人的な感情ではものを言えないの。ナルトを煽って、私を煽って、抗議活動するように仕向けていたのよ」
「じゃあ、君たち同期がこぞって抗議していたのは」
「まあね。もちろん明確に指示された訳じゃないけど、私はそのつもりで動いてるわ」
 サイは執務室の様子を思い起こした。
 あの場には常に書記が側にいて、面会の内容を書き記していた。執務室で、たとえプライベートなことでも、口にすれば書記の耳には入るのだ。火影代理が罪人に肩入れしていると知られるのは危険だ。
「ナルトの二週間の任務は、たぶんこのために組み込んだと見て間違いないわ。あんたがこのタイミングで先生に会いに行ってなければ、ヤマト隊長あたりが任務先でうっかり口を滑らせることになってたのかも」
「このため…ナルトに何か行動を起こさせるため? …じゃあ、執行は予定に入っていない…?」
「と、思うわ」
「でも、今ナルトが問題を起こして…投獄されでもしたら、それこそ上層部に『今のうち』って思われないかな」
「…ええ」
 でも、とサクラは難しい顔で床を睨む。
「この前のコハル様の件ぐらいじゃ、カカシ先生の期待した暴れ方には足りなかったってことだと思うの。それってつまり、取り押さえられて投獄されるぐらいじゃなきゃ…ってことじゃない?」
 不意に、壁と天井の赤いランプが点滅を始めた。非常警報だが、病院ではサイレンは鳴らさない。ナルトはカカシのところではなくサスケの病室へ行ったのだ、と二人は顔を見合わせた。
「…じゃ、ボクたちも取り押さえに行こうか?」
「そうね。行かないと不自然よね」
 言うなり、二人は廊下を走り出した。

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