ゲシュタルトロス・フクス:20

20
 
 
 ナルトのただならぬ形相に、病室の見張りはぎょっとして立ち塞がった。ナルトは駆け寄りながら印を結び、三体の影分身を出す。それを見張りに体当たりさせ、自身は病室に飛び込んだ。
「…ナルトか?」
 驚いたように、サスケが包帯の目を向けた。普段は声をかけるまで無視するのに、さすがに何かを感じ取ったのだろう。勢いのままサスケに走り寄る。無為に背を枕に預け、そうしていればサスケは病人だ。ナルトは逸る心臓に急かされるように、サスケを抱き寄せた。
「どうした…」
「逃げるぞ」
「…は?」
 手錠の手が、二人の間でぴくりと揺れる。
「身を隠すんだ」
「おい、何を言って…」
 右腕でしっかりと肩を抱き、毛布を剥ぐと膝裏に左腕をくぐらせる。とたんにサスケは暴れ出した。
「サスケ!」
「何してんだ、てめえ!」
 唐突に『逃げる』と言うナルトに、ようやく思考が追い付いたのだろう。何故ナルトがそんなことを言い出したかなど、サスケには関係ないのだ。そう思うと泣きたくなった。
 手錠ごと力任せに腕を突っ張らせる。掬い上げようとする足は無闇に暴れ、ベッドの柵に容赦なく当たる。このままでは怪我をさせてしまう、ナルトは暗澹とサスケを抱き締めた。
「おい、行くぞ!」
 見張りを伸した一体が消え、残り二体となった影分身が忙しなく怒鳴り、窓を全開にして飛び出してゆく。すぐに外の警備と出くわすが、ナルト本体とサスケがここを抜け出すのにはその足止めが必要で、それは影分身の役割に違いない。
「離せ!」
「イヤだ!」
 嫌だ、嫌だ、絶対に離さない。痩せて骨張った体をかき抱いて、その耳元に呪文のように繰り返す。
「嫌だ、イヤなんだ、サスケ」
「ナルト!」
「嫌だ、サスケ、ぜってえ切らせねえ」
「てめえが決めることじゃねえ!」
 サスケの抵抗は止まない。
「ナ…ル、」
 両腕でぎりぎりと締め上げるように抱けば、己の手首で肺を圧迫され、吐いた息を吸えずにサスケは喘いだ。
「ごめん、サスケ、でも嫌なんだ」
 ナルトはそのままサスケを引きずると、窓枠に足をかけた。
「ナルト!」
 鋭い声が耳を刺す。
 振り向くと、サクラとサイがドア口に立っていた。サクラの厳しい目に、ナルトは歯を食いしばる。サスケの足が力なくもがき、床を滑った。
「…あんた…こんなことして、自分の立場が悪くなるだけなの、分かってるの?」
「サクラちゃん…」
 もしかしたら、土壇場でサスケを助けてくれるのはサクラかも知れない。冷静を装ってサスケの主治医であり続け、いざ手術という段に助けてくれるのかも知れない。だが嫌だった。ナルトは自らの手でサスケを救い出したかったのだ。
 それは里抜けしたサスケを追い続けていた時からの、変わらない独占欲なのだと───ナルトはもう気付いていた。
「サクラちゃん、俺の立場って…何?」
 サクラの目が一瞬曇る。サイがサクラを窺い、そしてナルトを見た。サクラが人柱力を思い、サイが英雄を思ったことは、何故だかナルトには正確に伝わった。
 それでも、ナルトを引き留めるものではないのだ。窒息寸前のサスケを抱えて、ナルトは病院を飛び出した。


「…サイ、カカシ先生に知らせて。先生の忍犬なら跡を辿れるから」
 脳震盪を起こしている見張りを抱き起こしながら、サクラはサイを見上げた。今二人を追えば、ナルトを追い詰めることになる。本人にそのつもりがなくとも、里を出てしまえばそれは『里抜け』だ。分かったと頷いて、サイは窓から病院を出た。
 屋根伝いに火影邸を目指す。
 すると不意に目の前を横切ってゆくものがあった。
「!」
 数匹の忍犬だ。直前まで気配に気付けなかったことに、一瞬動きが止まる。風のように駆け抜けてゆく忍犬を見送ると、次いで人影がサイの前を通り過ぎた。
 カカシだ。
 すれ違いざまに笑みを送られて、サイは完全に立ち止まった。そうだ、ナルトとサスケにはまだ、暗部の監視がついていた。逃亡を阻止しなかったところを見ると、彼らの任務は動向の監視のみだったのだろう。
 カカシをサポートするはずの追っ手は現れない。火影代理が単独行動する理由はただひとつ、彼自身がそう命じたのに違いない。ナルトを刺激しないため、とでも言ったのだろうか? 何にせよ、サイも追わないのであれば、それをサクラに伝えるべきだろう。たぶん合っている、彼女はそう言った。確証の持てないままナルトを送り出したのだ。
(…すごいなあ、『七班』って)
 軽くため息をつき、頬のあたりを掻くと、サイは今来た道を引き返した。
 

*     *     *

 
「離せ…ッ!」
「サスケ! 暴れんなって!」
 酸欠に意識を失いかけていたサスケは、自分がナルトの肩に担がれていることを認識するなりもがき始めた。
 冗談じゃねえ。
 どこまで来た?
 視界に入るナルトの足は地面を走っている。目を隠していたはずの包帯が、己の首から風にたなびいている。無理矢理首を上げ、ざっと見渡すが民家はない。血の気が引く。ここはどこだ。
「…ナルトォ!!」
 肘を力一杯ナルトの背に打ちつけ、僅かに拘束のずれた隙を逃さず、膝を顎のあたり目がけて繰り出す。
「サス…ッ」
 当たりこそしなかったものの、ナルトはバランスを崩した。地面に落ちかけながら、サスケは手錠の腕をナルトの首に引っかけ、重力を利用して背後から引き倒す。踏みとどまろうとする膝の裏に蹴りを入れれば、ナルトはサスケごと大地に転がった。
「ぅあ…ッ」
 だが、呻き声を上げたのは、ナルトの下敷きになったサスケの方だ。ナルトはすかさずサスケの腕の輪から抜け出し、その体を横抱きにする。
「里を抜けたりはしねえから!」
「これじゃ同じことだろうが…ッ!」
「減刑が認められるまで身を隠すだけだ!」
「てめえ、そんなんで自分のわがままが通るとでも思ってんのかよ!? 頭冷やせ、ナルト!」
「でも嫌なんだよ!!」
 尚も暴れるサスケに、ナルトは悲痛な叫び声を上げた。
「お前の足切られんの嫌なんだからしょうがねえだろ!!」
「わがままもいい加減にしろ!!」
 埒があかない。
 サスケは巻き添えをものともせず豪火球の印を切った。
「サ…」
 気付いたナルトは寸前でサスケを離したが、直撃を受けて大地を転がる。自身も地面へ叩きつけられ、サスケは舌打ちをした。
 庇われたのだ。
 手錠が邪魔で不完全だった火遁は、大した威力ではなかった。だがナルトがとっさにサスケを離したのが、サスケに被害が及ばないようにという配慮だと気付いてしまった。肘をついて身を起こせば、不完全とはいえ豪火球の直撃に呻くナルトの姿が目に入る。
 焼け爛れた腕が、辛うじてガードしたのだと知れる。サスケの目の前で、その腕がしゅうしゅうと音を立てて再生してゆく。そうだ、ナルトの回復力は九尾の人柱力ゆえのものだ。回復してしまえば同じことの繰り返しだ。ぎりりと歯を食いしばるとサスケは叫んだ。
「たゆら!!」
 ぴくり、と───その腕が揺れた。
「来い!!」
 サスケの声に、その目が開く。
 ぎしぎしと軋む体を無理矢理捻り、体を起こし、無感動な獣の目でサスケを捉えた。ナルトではない。サスケは細く息を吐いた。それは後悔とも安堵ともつかないため息だった。
 見ているうちに、ナルトの腕は完全に皮膚を取り戻す。
「…動けるか」
「問題ありません」
「事情は分かるか?」
「はい」
 たゆらは立ち上がると歩み寄り、サスケの側に膝をついた。その様子からは既にダメージは感じられない。ナルトの回復力は早いが、九尾自身が表に出ている方が更に早いようだった。
「…ナルトは?」
「気を失っている」
 ほっとした。
 たゆらはじっとサスケを見つめていた。気付いて見返すと、その青い目が僅かに揺れた。何だ、と思うと、不意に尋ねられた。
「…あなたは、それでいいのか」
「何?」
「ナルトは、あなたの足が切られるのは嫌だと言う。なのに、あなたを連れて里から逃げるのでは意味がないと言う」
「…」
 己には分からない、たゆらは低く呟いた。おずおずと手が手錠に触れる。そして病院服から伸びる素足を労るように撫でる。見れば、病院を出る際に暴れた痕跡が何ヶ所にも痣となって浮かんでいる。腫れ始めている部分もあり、自覚したとたんに痛みが浮上してきた。
 その時唐突に、たゆらを取り巻く空気が変わった。
 同時にサスケも近付く気配に身を固くする。振り向くと、充分な間合いを取った位置にカカシが降り立つところだった。


 まずい、瞬間的にたゆらの殺気が肌を刺す。サスケはたゆらの手を掴んで制した。
「おい、逆らうなよ」
「…」
 返事はない。
「おい…!」
「やってくれたな、ナルト」
 二人の間に、のんびりとしたカカシの声が割って入った。唇を噛んで見上げるが、カカシは『ナルト』から目を逸らさない。
「何、ボロボロじゃない。火遁くらった?」
「カカシ! 俺たちは今、病院に戻るところで…」
「あ、いいからいいから。サスケはちょっと休んでなさいね」
 チャクラ使ったのなんて久しぶりでしょ、にこやかにそう告げるカカシは、それでも『ナルト』から注意を逸らさない。音もなく、たゆらは立ち上がっていた。
「どこへ行くつもりだった? まさか本気で里を抜ける気じゃないよな」
 たゆらは答えない。
 サスケを連れ出したのは彼ではない、ナルトだ。カカシは探るように『ナルト』を見つめていた。ふうん、と腰に手を当て小さく首を傾げる。
「…お前、ナルトじゃないよね」
「な…ッ」
 思わず声を上げたのはサスケだった。はっとするが、もう遅い。ちらりと隻眼の視線を寄越されて舌打ちする。
「サスケ、お前が隠していたのはこれか?」
「…ああ」
 サスケは早々に見切りを付けた。
「サクラから聞いてるか? 多重人格障害のこと」
「疑いあり、とは聞いてるよ」
「俺が今まで言わなかったのは…ナルトが元に戻ったからだ。こいつは本来は、もう表に出ることがないはずだった」
 出任せは簡単に口からこぼれた。立ち上がろうと手をつくと、横からたゆらが腕を支える。そうしながらも、たゆらの注意はカカシに向けられたままだ。
 いや、注意ではない。
 殺気だ。
 横目で見れば、底冷えのする青い目がカカシを捉えている。
「…たゆら」
 小さく呼んでも注意は逸れない。
「たゆら。俺を見ろ」
「…」
 手首を掴んでそう言えば、ようやくこちらを向く。殺気が徐々に鎮火してゆくように、たゆらはじっとサスケの黒い瞳を見た。
「ふうん。タユラっていうんだ」
 カカシが変わらず暢気な様子で言う。だが無論、警戒はしているだろう。名を知られたたゆらが再びカカシを見た。
「で? 病院からサスケを連れ出したのはどっち?」
「…ナルト」
 意外なほど冷静にたゆらが答える。
「なるほど…。察するに、火遁で気を失ったナルトの代わりにお前が出てきた…ってところか?」
 サスケはほとんどほっとして、ため息をついた。だが、カカシの矛先が今度はサスケに向く。
「でもまあ、お前が隠していたのはこんなことじゃないよね」
「…っ!」
「隠す意味もないし、いざという時対処に困るし。ね?」
「…」
 言い訳ならいくらでも思いつく。だが、ここでそれを並べ立てるのはカカシの思う壷だ。サスケは口を引き結んだ。
「まあいいよ。その件はまた今度だ。とりあえず今は…病院に戻る方が先だね」
「…ああ」
 冷静を装ってサスケはカカシを見返した。
「で、タユラ? 悪いがお前は───」
 カカシがたゆらに、そう言いかけた時だった。

 隣にいたはずのたゆらがいなかった。

「え…」
 手首を掴んでいたと思ったのは間違いか。思わず掌を見る。ふと視線を上げて、背がおぞけ立った。
「たゆら!」
 殺気という名のチャクラが尋常ではない。九つの尾の形はそれぞれが切っ先のようにカカシを取り巻き、たゆらは片手でその首を掴み上げていた。
 あのカカシが、躱せなかった?
 或いは、害されないと判断した上で避けなかった?
 たゆらは低く囁いた。
「その名で己を呼んでいいのはサスケだけだ」
 カカシは『ギブアップ』とでも言うように両手を見せ、小さく頷く。そしてたゆらがその手の力を緩めるのと同時に、暗部五人に囲まれた。恐らくは始めから二人をマークしていた暗部だろう。鋭く研がれたクナイがたゆらに突きつけられる。
「よせ、何もするな!」
 サスケが叫んだのは、たゆらに対してだった。だが数歩距離を取って咳き込むカカシも同じことを言った。
「大丈夫、何でもないから。『ナルト』は抵抗しない。そうだな、ナルト?」
「…」
 たゆらの目だけがカカシを流し見る。両手がだらりと下がり、暗部はそれを抵抗の意志なしと判断した。『ナルト』の装備を乱暴に外し去り、後ろ手に手錠をかける。たゆらはただ黙っていた。
「悪いが…今回は庇い切れないぞ、ナルト。留置場で頭を冷やして貰う」
 カカシが『ナルト』と呼ぶのは、たゆらがその名を呼ぶなと言うせいだろうか。暗部に囲まれたたゆらが、そろりとサスケを窺い見た。
 思わず走り寄る。
 暗部はカカシに従って、サスケの邪魔はしなかった。だが何を言ってやればいいのか分からない。おとなしくしていろ? ナルトが目覚めたら檻でおとなしくしていろ? 取り調べには答えるな? だがそれらは、たゆらは既に承知しているのだ。じっと見つめると、何かを言いかけるように僅かに開かれた唇が、何も言わずに閉じられる。
 檻に置き去りにした時と同じだ、とサスケは思った。
 手をその顔へ伸ばす。手錠の鎖ががちゃりと鳴る。火遁の煤の付いた頬に指先を滑らせると、たゆらは懐くように、サスケの掌にそっと顔をすり寄せた。

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