ゲシュタルトロス・フクス:21

21
 
 
(ふうん…?)
 軽い驚きをもって、カカシは二人を見つめた。後ろ手に手錠をかけられていなければ、タユラはその腕でサスケを抱き寄せていたかも知れない、と思わせられる。ナルトが『記憶喪失』だった間が、つまりはこのタユラだったという訳だ。サスケの牢に忍び込んだのもタユラだろう。
(眠気も吹き飛ぶね…)
 だが頭痛は増した。
 明らかにサスケはタユラを気にかけている。タユラと交代したナルトには壁を作り、距離を置こうとするのは何故だ。本当に多重人格障害であるならば、適切な治療をサスケが勧めない理由は何だ。タユラを特別視しているから? 人格が統合されタユラが消えてしまうのを望んでいない? そうではない、とカカシは思う。サスケが今更そんな甘い理由でタユラの存在を隠したがるとは思えないのだ。カカシは僅かに険しくなる顔を、意識的に作り直す。
(…嫌なこと考えちゃうじゃない?)
 ヤマトの報告が耳に蘇る。
 封印が外れかかっているにも関わらず、九尾のチャクラの引き出し方が分からなくなったというナルト。反して、チャクラは無尽蔵であるかのように救援任務を片付けたタユラ。サスケを畏れたタユラ、写輪眼に固執するタユラ。
(さて…どうするかね)
 タユラを連れ去る暗部を見送って、カカシはサスケの後ろ姿をそっと見つめた。
 

*     *     *

 
 ふと気付くと、鉄格子が目に入った。
 見覚えならある。サスケの牢を内側から見た記憶が。固い寝台に体を横たえて、ナルトは目を覚ました。すぐに動く気になれない。手首が体の後ろで拘束されている。そのままの格好で、ナルトは遣る瀬なく唇を噛んだ。
 火遁をくらったあとの記憶が飛んでいる。気を失って追っ手に拘束されたのだろう、と思うが、気が鬱ぐ原因はそんなことではなかった。
(何も)
 眉間が歪む。
(何も出来なかった)
 ほとんど発作的な行動だったことは否めない。自分が任務に出る明日にでもサスケの足が切り落とされるかも知れないと思ったら、理性などするりと滑り落ちた。
 執行までにはまだ時間があると思っていた。心のどこかで、そんな刑はカカシが阻止してくれると信じていた。まるで現実感の薄い判決だったのだ。それが俄かに現実となる、その事実に衝撃を受けた。
 自分は何をしただろう、自分の行動が何かサスケのためになっただろうか? 判決を聞き、カカシを問い詰めた。何度もカカシに面会を求め、判決の撤回と減刑を要求した。痺れを切らして元上役のコハルを連れ出し、サスケに会わせた。サクラたち同期の減刑嘆願署名の活動を手伝った。思い返しても、彼ら以上の何かを為したとは言えない。挙げ句、今回の失態だ。
 失態。
 そう言うに足る暴挙だった。一番うるさいナルトがいない間に、という冷静なサクラの声に心臓が冷えた。感情だけでサスケを攫った。計画など何もなかった。里の中でサスケを隠し、判決を撤回させる。ただそれだけだった。誰にも見つからずに隠し通せるとは、もちろん思っていなかった。籠城してでもサスケを誰にも触らせたくなかったのだ。
 だが、結局はこの様だ。
 当然のようにサスケの協力は得られず、孤立無援のナルトは火遁に気を失い、今は牢に収監されている。
 つう、と悔し涙がひとすじ、顔を横切った。
(何でだ)
 サスケを取り戻そうとしたこと自体が間違いだったのか。サスケ君に私たちの気持ちを疑わせないで、とサクラに頬を叩かれたことを思い出す。サクラはサスケが里に戻ってきたことを、心から喜べるのだろうか。たとえ両足を切り落とされたサスケであっても? そんなはずはない。そんなはずはなかった。サクラはサスケが好きなのだ。一番辛いのはサクラであるはずだ。そのはずだった。
(何で)
 何故ああも落ち着いていられるのか。
 まるでナルト一人がサスケの味方であるかのようだった。そのサスケすら、自身の味方ではないのだ。
(変えられねえのか)
 判決も、サスケの心も、古い木ノ葉の体質も。
 抱き締めた薄い体が脳裏にちらつく。
 留置場から逃げ出すのは簡単だ。だが、逃げ出しても何にもならない。追っ手がかかり、それから逃れようと思うのならナルトは抜け忍となる。それでは意味がない。ここでおとなしく囚われているしかないのだ。
 もし───。
 もし、こうしている間に刑が執行されてしまったら? ふと考えたそれに心臓が激しく乱れる。自分が捕まってからどれほどの時間が過ぎているのだろう。呼吸が曖昧になり、体が震えた。
「サスケ…」
 知らず、口からその名がこぼれる。
 取り戻すための努力なら惜しまなかった。無茶とも言える修行を重ねた。その結果がこれなのか。
 不意に、地下牢の淀んだ空気が揺れた。
 重い鉄の扉が開く気配、次第に近付く足音は複数だ。だがナルトには何の関心も湧かなかった。誰がここへ来ようとも、サスケの判決が覆るのでなければ関係ないのだ。
「目が覚めたか、ナルト」
 涙に霞む先にはカカシの姿があった。居並ぶのは木ノ葉上層部だ。その中にはコハルの姿もあったが、ナルトにはまるで見えていなかった。
 ぼんやりと、味方であるはずの師を眺める。
 何をしに来たのだろう。
「お前さ、サスケを連れ出して、どうするつもりだったの」
 ああ、尋問か。
 ナルトは、しかし体を起こすことはせず、そして答えなかった。この連中には何を言っても無駄なのだ。サスケから名前と尊厳を剥ぎ取り、切り刻むことしか考えていないのだ。
「…無礼だぞ、うずまきナルト。起きて答えろ」
 老人の声が聞こえる。
「まあまあ、火遁を至近距離から食らったんですから。ナルトじゃなければ今頃は集中治療室ですよ」
 その老人を宥めるカカシの声に、ナルトは昏く嗤った。火傷の痛みなど疾うに消え去っている。それでも、どうしても体を起こして正面から彼らに向き合う気にはなれなかった。
「…なあ、先生。サスケを返してくれよ」
 掠れた声が出た。
「返す? お前に?」
「七班に」
 牢の中がしんとする。
「サスケは帰ってきたんだ。そうだろ、カカシ先生」
「…そうだね」
 相槌は肯定だったが、その続きならナルトも良く承知していた。でも、と続くのだ。
「でも、サスケは重罪人だ。罪に対する罰は受けなければならない」
 予想と寸分違わぬ科白は可笑しくさえある。
「罪って何だよ。何でサスケが里を襲ったのか、あんたたちは知ってんだよな? それでもサスケが悪いのかよ」
「…忍は私を滅せよ、という教えを忘れたか? 個の損害より全体の利益だ」
 割り込んだ老人の声をナルトは無視した。そんなことを言っているうちは、里は変わらないのだ。
「サスケは結局、木ノ葉を助けたじゃねえかよ。襲撃してきたはずなのに、俺から木ノ葉を守ったじゃねえか。そうだよ、何で俺はお咎めなしで、サスケだけ罪人扱いなんだ。俺は九尾で、里を丸ごと潰しちまうところだったんだろ?」
「…ナルト、お前はナルトであって九尾じゃない」
「同じだよ、先生。こいつらや里の連中にとっちゃ、同じことなんだ」
 俺は九尾じゃない、俺の中に九尾がいるのは俺のせいじゃない。そう叫び続けるのもいい加減疲れた。
「里を救えば『英雄』なら、サスケだって英雄だ。そう思うから、皆あの判決に抗議してるんだろ」
 横たわったまま見遣る先のカカシには、それでも変化はない。くすんだ隈がカカシの疲労を物語っていたが、ナルトはそれさえサスケを追い詰めているように感じた。
「…それで?」
 ナルトを促す声が、奇妙に突き放して聞こえる。
「それでお前は、サスケを助けたつもりなのか」
 助ける?
 ナルトの口が嘲笑に歪んだ。
「…カカシ先生も知ってんだろ。あいつは助けなんか求めちゃいねえ。じっと黙って、笑って、切り刻まれんのを待ってるんだ。俺はそれが嫌なんだ」
「だから連れ出したのか?」
 だが、連れ戻された。
 ナルトはようやく自覚した。
 俺は無力だ。
「先生。頼みが…ある」
 乾き始めた涙の跡をなぞるように、新たな雫が転がり落ちた。
「どうしてもアイツの足を切るなら、俺の足をアイツにやってくれ」
 幸いにも背格好はさほど変わらない。型の合う合わないはサクラが何とかしてくれる。カカシの肩が、ため息に小さく揺れた。
「本気で言ってるの、それ」
「嘘や冗談で言えるかよ」
「…サスケがそれを望むと思うか?」
「思わねえよ。でも…アイツも、俺がアイツの足切られんの嫌だって、知ってる。おあいこだろ?」
 カカシの目が、ナルトから上役たちへと移された。彼らが頷くのを見て取り、カカシが再びナルトに顔を向け、一歩鉄格子へ近付く。
「…最後にひとつ訊く。お前はサスケを連れて、里を抜けるつもりだったのか?」
 ナルトは僅かに首を振った。サスケを連れて里を抜ければいい、九尾の、タユラの単純明快な提案。
「里から逃げるんじゃ、意味がねえよ」
 里抜けはナルトの中の選択肢にはなかった。抜けてしまったら、それまでと同じになってしまう。サスケは帰ってきたのだ。だから、木ノ葉の里で赦されなければならないのだ。
 ふと、カカシが柔らかな笑みを浮かべるのが目に入った。意味が分からなくて、ナルトはそれを見なかったふりをした。
 カカシの目配せで看守が牢を開ける。
「…?」
 入ってきた看守が、別の鍵を取り出して壁から延びる鎖を手錠から外した。立ち上がるよう促されるが、手錠を外される気配はない。
「おいで、ナルト」
 カカシに続く二人は彼の護衛だろうか。そのあとを、看守に連れられて歩く。ナルトと看守の後ろに上役たちが続く。移送されるのか、と思うが、火影代理と木ノ葉上層部に囲まれての行進に違和感ばかりが沸き起こった。
 留置場を出ると、特別上忍四人に囲まれる。看守と交代する彼らは、意識的にかナルトと目を合わせない。
 ぞろぞろと歩く異様な集団は、嫌でも人目を引いた。驚いた顔、好奇の視線が一行に注がれる。
 俯けば、火遁で焼け焦げたぼろぼろの服が目に入る。袖は途中から炭化し、既にない。後ろ手の手錠は特別上忍の持つ鎖に繋がれ、前後左右を塞がれたナルトからは、前をゆくはずのカカシの姿も見えはしなかった。
 だが、道には覚えがあった。
(病院…?)
 ぼんやりと周囲に顔を巡らせる。取り囲む特別上忍の隙間から見える景色は、次第に木ノ葉病院へと近付いていた。
(サスケ…)
 日は傾き始め、空気が寂しげなオレンジ色に浸食されつつある。サスケはもう病院に戻されているのだろうか。自分が捕まったということは、サスケには類が及ばなかったということでもあるはずだ。
 ナルトを連行するカカシは、正面入口から病院へと入った。
「カカシ先生…」
 固い声はサクラだ。
 覗き見た彼女は、見慣れない薄水色のスモックを着て、髪を後ろにまとめている。その顔は蒼白で、握り締める両手はかたかたと震えていた。ナルトと目が合うと、その惨状に驚きを見せる。
「準備は?」
「…先生、本当に…」
 サクラの声は、真冬に水でも被ったあとのようだ、とナルトは思った。
「ああ。今から刑を執行する」
 カカシの声が淡々とそれを告げた。任務内容を告げる時と変わらない、特別なことなど何もないのだと勘違いしそうなほど、まるで普段通りの声だった。ああやっぱり、執行するんだ。ここに連れてこられたのは、自分の願いが聞き入れられたということだろうか。それだけは、ナルトはほっとすることが出来たのだった。

 病院の廊下を歩きながら、意識の裏では封印の檻への廊下を歩いている。前よりは遥かに早く、くすんだ巻物の転がる通路へ出る。その巻物の多くなる方へと足を進める。何故この通路を歩いているのだろう。九尾の、『タユラ』のチャクラを必要としている訳ではない。今更タユラの意見を聞きたい訳でもない。逃げているのだろうか。ただ逃げているだけなのだろうか。歩きにくい、巻物の波の上。現実の廊下を歩く足までよろめく。煌々と照らされる病院の廊下、じっとりと仄暗い檻への通路。
 檻に辿り着くと、タユラは既に立っていて、近付くナルトをじっと見ていた。そのまなざしからは何も感じ取れない。ナルトは檻の手前で立ち止まった。
「…これから、刑が執行される」
 外の様子は把握していたようで、タユラは何も言わずにナルトを見返した。
「俺の足を、サスケにやろうと思う」
 それは、たぶんタユラも知っている。わざわざ伝えなくとも良いことだ。一体何をしに、自分はここまで来たのだろう。タユラは九尾だ。その力を解放させ、病院どころではなく里を滅茶苦茶にして、サスケを連れ出して欲しい訳でもない。
「俺は歩けなくなる」
 だから何だ、という青い目が、鏡のようにこちらを見ている。
「俺は間違ってると思うか」
 ああそうだ、口に出してから、自分は不安なのだと気付いた。タユラは微かに首を傾けた。分からない、という呟きが聞こえた。
「俺にはもう、こんなことぐらいしか…思い付かねえんだ」
「サスケがそれを赦すのなら」
 タユラは言った。
 ナルトは僅かばかり俯いた。失笑が漏れる。タユラの基準は全てサスケだ。
 サスケはこの行動を赦すだろうか?
(どうだろうな)
 失笑は、自分に対してだ。
 バカを言うなと怒るサスケも、お前はそれでいいのかと笑うサスケも想像できる。ただ、現実のサスケはナルトの思う通りには動いてくれない。身を隠すと言った時、もしサスケが同意していたら、どうなっていただろう。考えかけて、やめた。そんなものは幸福な幻想でしかないのだ。
「ナルト、お前はここで少し待て」
 不意に飛び込んだカカシの声に、檻から引き戻される。はっとして深く息を吸い込んだ時には、ナルトは特別上忍四人と共に、広々とした手術室に入っていた。
 カカシを振り返る。
 扉は閉まるところで、ナルトからカカシの様子を窺うことは、敵わなかった。

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