ゲシュタルトロス・フクス:23

23
 
 
「ナルトの方の罰則は、まあ、考えておくから。とりあえずお前は病室に戻りなさい」
 何かで飽和状態になったサスケの頭に、カカシの声が降ってくる。抱きついていたサクラが涙に濡れた瞳で「良かった」と言う。何が『良かった』なのか分からない。足の切断が取り消されたことだろうか。ナルトも代わりに足を切断されることがないからだろうか。
 全身が嫌な汗でじっとりと湿っていた。
 何を想像しただろう。何を考えただろう。自分の足が切られることなど、どうでも良かったのだ。それが、ナルトの足を切るのだと知って、何を思っただろう。手術室に入って僅か数分の出来事だ。自分が極度の緊張状態にあったことは言うまでもない。
(それを、こいつは、)
 判決が出てから一ヶ月弱という時間が経過している。ナルトはこの気持ちを抱えたまま、その時間を過ごしてきたのだ。抱き締めるサクラの腕の隙間から、麻酔に眠るナルトを見る。眠っていてくれて良かった、とサスケは思った。
「…カカシ」
 冷たい床に座り込んだまま、サスケは呟く。
「任務了解。これより九尾の監視にあたる」
「え?」
 疑問符はサクラだ。
「俺の体は…好きに扱って構わない。移植なり解体なり、好きにしろ」
「ちょっと、サスケ? どういう…」
 つもり、というカカシの科白を聞き流しながら、サスケは再び写輪眼を開いた。その目でナルトを捉える。意識のないナルトの内部へ進入することなど、造作もなかった。

「サスケ君…、サスケ君?」
 あの時と同じだ、サクラは瞬時に理解した。退行催眠の治験の、あの時だ。
 だが、あの時とは違い、サスケは写輪眼のまま瞼を閉じた。がくりと力を失う体を慌てて支える。
「サクラ、どういうことだか分かる?」
「いえ…でも」
 耳の下へ指先を当てるが、脈は極端に遅くなり始めている。呼吸も、しているのか分からない程度にしか胸部に動きはない。眠っている訳ではなさそうだった。
「こういう言い方は乱暴ですけど、仮死状態って言うのが一番近いかも…」
 元々高くはない体温が下がるのも時間の問題だ。
「今、写輪眼だったよね」
「はい」
 そして、ナルトを見たのだ。
 カカシは僅かに眉間を歪めると頭を掻いた。
「状況としては『あの時』と同じ…」
「そう…ですね」
 サクラは、あの時サスケが写輪眼を以て何かをした、ということしか分からない。カカシには何か思い当たることがあるのだろうか。サスケの上体を支えながら、不安げにカカシを見上げる。
 上役の歩み寄る気配にカカシは振り向いた。
「どうなっている」
「恐らく…九尾の封印の元へ、瞳力を使って精神だけを飛ばしたのでは、と。九尾の監視にあたると言いましたから」
「…裏切るまいな?」
「今更でしょう。ありえませんよ」
 言い切るカカシに、老人は渋々頷いた。
 サクラはほとんど逃げ腰だった医師を捕まえると、ストレッチャーを二台手配した。居合わせたことで耳にしたことを、手を休めることなく考える。ナルトの腹に封印された九尾は『タユラ』という名のようだ。病室での会話からすると、彼らは『タユラ』を知っていて、それが九尾であるということをサスケは黙っていたのだろう。
 腕にチャクラを集中させ、サスケの体を抱え上げストレッチャーに乗せる。
「先生、二人はサスケ君の病室に運びます」
「そうだね…どういう状態か分からないから、二人をあまり離さないで」
 サクラは頷くと、医師を促して手術室を出た。
 何にせよ、サクラのいる場で交わされた会話だ。自分に聞かれて困る話ではないのだろう、とあたりを付ける。あとでカカシに訊けばいい、サクラは意識のない二人をただ見つめ、病室を目指した。
 

*     *     *

 
 ここは薄暗い。
 嫌というほど明るくした手術室から一転、包帯で目を隠している時のような安堵感すらある。黒ずんだ古い巻物の波の上に立ち上がり、サスケはその足元を見下ろした。
 ナルトが眠っていた。
 手術室で見た時のまま、病院服を着ている。足首には、だがあの墨の線はない。麻酔をかけられた時の状態でここへ来たのだろう。胸に広がるざわめきを無視して、サスケは檻を見た。たゆらは檻の中、じっとこちらを見ていた。
 何かを言いたげな、もどかしげな顔でただじっとサスケを見ている。
「…外の様子は見ていたか?」
 問えば、はい、と檻の中から遠く返事が聞こえる。サスケは巻物の上を、檻に向かって歩み寄った。
 そのまま檻をすり抜けて中へ入るサスケを、たゆらはじっと待ち受ける。
 たゆらの立つ場所が、片付けられていることにサスケは小さく笑った。暇に飽かせて巻物を整理しているのだろう。床に降り立ち、たゆらと向かい合う。
「…聞いての通りだ」
「あなたが、己を…監視するのか」
「ああ」
「…ここで?」
「そうだ」
 はっきりと、たゆらの顔が曇った。
 サスケにはそれが奇妙な印象だ。ほとんど包帯で視界を閉ざしてはいたが、たゆらには表現するべき感情など発生していなかったように思っていた。快・不快という単純な生理表現、たゆらの全身を取り巻く本能的な警戒感、せいぜいがその程度だと思っていたのだ。
 確かに『ナルト』が目覚めて以降は数えるほどしか会っていない。そしてその間たゆらはこの檻に一人だ。何かに影響を受けることなどあるだろうか? 或いは、外の様子に目を凝らす彼は何らかの影響を受けるのだろうか?
「何故だ」
 たゆらは茫洋と立ったままサスケを見返した。
「己はここにいる。己の意志でここにいる。勝手に出ることはない」
「ああ、分かってる」
 逃げ出したのだ。
 俺はあの場にいたくなくて逃げ出したんだ。たゆらはサスケに従い、この檻にいることを選んだ。ここで見張らなければならない道理はない。サスケは自嘲を浮かべ、手首を戒める枷を見つめた。
「お前を疑ってる訳じゃねえよ。俺もここにいたいだけだ」
 俺は自由だ、たゆらに繰り返した言葉を口の中で反芻する。刑の執行は、包帯とこの手枷の喪失ということでもあった。それはサスケにとって、何も持たずに砂漠へ放り出され「これであなたは自由ですよ」と言われるようなものだった。
「…サスケ、ここは、九尾の檻だ。あなたの檻ではない」
 とまどった声にサスケは苦笑する。
「俺がここにいたら邪魔か?」
「…いいえ」
 不意に、たゆらが一歩踏み出した。落とした視界にその足先が写る。
 顔を上げると、手が伸ばされるところだった。指先がそっと目の下に触れ、頬を辿る。いいえ、もう一度囁くたゆらは、じっとサスケの目を見つめていた。その目は写輪眼だ。もはや恐れもなく、何かの感情も忘れた獣の青い目が写輪眼を見ていた。ふと、どうせなら治験のあの時にここに残れば良かったとサスケは思った。この子狐と共に、ここで一緒に眠れば良かった。そうしなかったのは何故だろう?
 分かっている、
 ナルトだ。
 ナルトに会いたかったのだ。会って呪詛を撒き散らしてやりたかったのだ。サスケは静かに笑んだ。ばかばかしい。何かの理由を作ってまで、何らかの繋がりを求めたということに他ならなかった。ここにいることすら、繋がりには違いない。ここはナルトの中なのだ。
 ふと、たゆらが視線を外す。
 その視線の先を追うと、ナルトの横たわる姿があった。腕が動かされる。麻酔から覚醒したのだろうか。通常から考えればありえない早さだ。両足首の切断を前提とした麻酔の量だ、少なかったということはないだろう。それとも、刑の執行は始めから中止が前提だったのだろうか。ナルトはごろりと体を転がし、俯せの状態で肘をつき顔を上げた。
 ゆるゆると頭を巡らせ、ここがどこなのかを認識したようだ。ぼんやりと様子を見ていると、ナルトと目が合った。憔悴した顔色に見えるのは、ここが薄暗いせいではないのだろう。サスケ、その口がそう動くのが見て取れた。だがサスケはそこから動かなかった。
 大儀そうにナルトが立ち上がる。
 ふらふらして、まだ完全には麻酔から覚めていない。短い距離を何度となく躓きながら、辿り着いた檻に掴まり、ナルトはサスケを見た。
「ごめん」
 ナルトの口から出たのは、まるで予期していない科白だった。不思議に思って、しかし足の切断の件が本当にナルトの言い出したことであるのだと悟る。
「俺、甘かった。お前を連れ戻せば何とかなるって…思ってた。あんな変な判決が出るとか、想像もしてなかった」
 ごめん、再び謝罪の言葉が呟かれる。五影会談の襲撃も木ノ葉の里への襲撃も、サスケがしたことだ。それに対する刑罰だというのに、何もかもを自分のせいと思っているのだろうか。相変わらずのナルトに、サスケはもう微笑みかけたりはしなかった。
「だからって自分の足を差し出すバカがいるか」
 言えば、ナルトはくしゃりと顔を歪めた。だって、と押し潰した声が吐き出された。
「だって、嫌だったんだ…。自分が走れなくなるより、お前が走れなくなる方が嫌だったんだ」
「…どうせ俺は忍には戻れねえ。走れなくなろうがどうなろうが、同じだ」
「でもさ、『もしも』ってことがあるかも知んねえだろ」
「それでお前が忍辞めてどうすんだ」
「そうだけどさ」
「恩着せがましい真似はよせ」
「そうじゃねえよ!」
 ナルトは何かを振り切るように、頭を振った。檻に爪が立てられる。
「俺にとっちゃ、それだけ大事なこと…」
 サスケは目を見張った。
 大事なことなんだ、という叫びが急に遠くなった。と同時に、檻にしがみついて体を支えていたはずのナルトが、煙よりも不確かに消えた。
 戻ったのだ。
 あまりに唐突だったので、拍子抜けした気分だ。サクラが起こしたようです、という声に振り向くと、たゆらが瞳を翳らせ俯いたところだった。ようやくサクラの名を覚えたのだな、とサスケは見当違いなことを思った。


「ナルト!?」
 薄く目を開けるが、まぶしくてナルトは視界を手で覆った。聞き覚えのある声が「大丈夫?」と気遣わしげに耳に届く。
「サクラ、ちゃん…?」
 うまく呂律が回らない。ああそうだった、と思い出す。足を切断するのに麻酔を打たれたのだ。今のは何だ。また夢だったのか。封印の檻の中。
「サスケ、は…?」
「いるわよ、ここに」
 サクラの指し示す方へ顔を向けると、自分と同じようにストレッチャーに横たわったままの姿が目に飛び込んだ。
 眠っているのか。
「ナルト。サスケはそこにいるか?」
「え?」
 カカシが覗き込んで訊く。一瞬意味を捉えきれず、しかしナルトは一気に覚醒した。勢い良く体を起こす。夢ではない。封印の檻の中。あれは本物のサスケだったのだ。
 だが、となればサスケがここに眠る意味が分からない。眠らずとも、檻へゆくことは可能なのだ。
「…いるってばよ。檻の中に」
「檻の中? いやあ、俺じゃそこまで辿り着けなくてさ。お前、呼び戻してくれる?」
 ぽかんと見上げると、くいと親指でサスケを示される。
「体の方が今、仮死状態でね。どうやら切り離した状態でそっちに行ってるみたい。そりゃあね、体を生かし続けることは不可能じゃないよ。でもこれじゃ困るんだよねえ…何のために両足切断が取り消しになったのか、意味ないじゃない?」
「…え?」
 じわじわと、カカシの声が脳に浸透する。
 取り消し?
「両足首の切断っていう刑は取り消しになったのよ」
 サクラが涙を滲ませた顔で笑っている。はっと気付いてサスケの足を見れば、すらりと伸びるそれはどこも欠けてはいなかった。連れ出した時に打ち付けたはずの痣すら見当たらない。
 次いで、自分の足を見る。奇妙なラインが目を引いた。
「…何これ?」
「あ、その線のところで切りますよっていう印?」
 ぐるりと墨を引かれた足首に、思わずぞっと背筋が冷える。
「お前の刑も中止。罰則は審議中だよ」
「あ…」
 小さく笑ってそう告げるカカシは、ナルトの良く知る『カカシ先生』だった。
「あのさ…、先生、あのさ…!」
「うん?」
「ありがとう」
 感謝の言葉はすんなりと口を飛び出した。くしゃくしゃと金髪をかき回すように撫でられて、いつか封印の前で出会った四代目を思い出す。
 俺はきっと、いろんな人に見守られてるんだ。
「サクラちゃん、俺、サクラちゃんに言わなきゃならないことがある」
「な、何よ」
「…サスケ、呼び戻したあとでさ、…二人っきりで会ってくんねえ?」
 怪訝に眉を顰めたサクラは、それでも「いいけど」と返事をくれた。
「…ナルト。行けるか?」
「ああ。そんじゃちょっと、迎えに行ってくるってばよ!」
 一点集中、ナルトは封印の檻を目指して目を閉じた。
 

*     *     *

 
 あなたは、ここにいるべきではない。
 檻の中で二人きり、しばらく続いた沈黙を破ったのはたゆらだった。
「…何だと?」
 写輪眼に執着したたゆらだ、サスケがここに留まることに異論が上がるとは思っていなかった。現に、先ほど「俺がここにいたら邪魔か」と訊いた時には「いいえ」と答えている。俯いていたはずの顔は上げられ、再び手が伸ばされた。
 そっと頬に触れる。
 そうだ、お前は、これが欲しかったんじゃねえのかよ。両手で顔を包み、ただじっと写輪眼と目を合わせる、その行為。
「…綺麗だ」
 またそれか、と思うが、以前感じたようなとまどいはなかった。ナルトを模した九尾だが、ナルトのような百面相はない。たゆらの言動には比喩も揶揄もなく、言葉は意志の疎通の補助にのみ使われている。それだけなのだ。
「…あなたは、ナルトを見ている」
 唐突に、たゆらは言った。
「だから、ここへ…来た、のですか」
「何を言っている」
「ナルトのために、ここへ」
「違う」
 サスケは拳を握り締めた。
 外の様子をある程度把握しているたゆらは、判決の変更もそこへ至る経緯も知っている。サスケがなりふり構わずナルトを庇ったことを、知っている。カカシや木ノ葉上層部がこういう算段で動いていたのでなければ、或いは須佐能乎や天照さえためらわなかっただろう。
「違う。ただ逃げてきただけだ。あそこにいたくねえ」
 サスケはとうとう本音を吐き出した。たゆらに対して取り繕う必要などない。言葉は言葉として、たゆらは受け取るだろう。彼には本音も建て前もないのだ。
「どうしたらいいのか、もう分からねえ。この目が欲しいならお前にやる。匿ってくれ」
 たゆらは口を開きかけて何度かまばたき、そうして固く握られたサスケの拳にそろりと触れた。じゃらり、こんなところでまで手枷の鎖は音を立てる。慰めるように拳を撫でられ、ようやくサスケは力を抜いた。
 苦しい息を吐き出すと、手を握るたゆらの顔が近付いた。どうするのかと見守ると、頬をすり寄せてくる。目を閉じれば、子狐に慰められているようで可笑しくさえある。
「…似たようなことを、ナルトも言っていた」
 その耳元で囁かれ、サスケは心地良さに聞き流しかけた。
「もう…こんなことぐらいしか思い付かない、と」
 こんなこと?
 もう、こんなことぐらいしか?
 顔を離して窺うが、たゆらは静かに見つめてくるばかりだ。
「…サスケ、ここにいる己では、あなたの盾になれない」
「何…?」
 盾?
 一瞬遅れて、放り出してきた体のことだと理解する。他里の忍や今は潜伏しているマダラ、写輪眼を欲しがる輩は隙あらばサスケを襲おうとするだろう。その、動かないサスケの体の、盾だ。
 だが、意識が戻らないと知れば、里がその体を隠すだろう。
「ナルトがあなたの盾になる」
 何だって?
 そんな必要はない、里に任せればいいのだ。ああ、だが、サスケははっと顔をしかめた。サスケに対して責任を感じているナルトは、率先してサスケを守ろうとするのだろう。
「…フン。勝手にさせとけばいい」
「あなたはそれを、ここで見ることになる」
 たゆらは淡々と告げた。
 治まりかけていたはずの胸のざわめきが、再びサスケを騒がせ始める。愕然とたゆらを見た。その時だった。
「サスケ!」
 二人の間に、鋭く声が割り込んだ。

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