滅却師が来た日・後編
一滴残らず(文字通り)吸い取られて、一護はベッドの上で悲嘆に暮れていた。
(…)
何というか涙も出ない。
メモリー増設しなければ役に立たないという事は、つまりはこの行為を最低でもあと一回はしなければならないという事だ。
「…」
後ろを振り返ると、強制入力終了後に「再起動します」と言ったきり、ただの人形のようにぴくりとも動かない人型パソコンが鎮座している。
これが女性型だったら。
パソコンに性別などない事は分かっている。だからせめて、女性型でなくても性別を意識させないタイプだったら。
目の前のそれはどう見ても男で、一護は溜め息を止められない。
(…返品…)
女性型への交換に金がかかるなら、もはや母からのプレゼントというのは取り敢えず気持ちだけ貰ったという事で、返品するしかない。
そうだ、そもそも虚とやらに襲われた事など一度もないではないか。母親の心配は杞憂ではないだろうか?
と言うか、何だかもう色々ダメな気がしてくる一護だ。
メモリー増設と言われてもそんな気にはなれないし、またぱくりとやられてももう勃つかどうか甚だ疑問だ。トラウマなんて、自分ではどうしようもない。
「ご主人様」
「う…わあッ!!?」
返品を考えていた時に唐突に声をかけられて、一護は飛び上がった。
(ご、『ご主人様』だあ?)
「ユーザー登録完了致しました。登録情報及びパラメーターの確認をなさいますか?」
「ぱ、パラメータ?」
「いつでもご確認頂けますが…」
「あ…あ、そう…んじゃ、いい」
すると、そのパソコンは柩の中で一護に向き直り、正座のまま深々と頭を下げた。
「お…おい…?」
「PC2198AZ・石田雨竜は、本日より黒崎一護様をオーナーとし、虚からお護り致します」
「…」
ゆるりと体を起こす黒髪に、返品を言いそびれた一護だ。
手の中の説明書を見る。特に期限などは書かれていないから、返品はいつでも受け付けているという事だろうか。
「それでは取扱についてご説明致します」
「うっ。あ…あぁ…」
返品するのなら説明は聞く必要はない。
それなのに、一護は目を離せなかった、その口元から。
「私は霊力を動力源としております。霊力をチャージするのは原則オーナーですが、緊急時にはオーナー以外の方の霊力も受け付けます。バッテリー残量が20%を下回りますと、メモリーが充分であってもクインシーシステム以外のアプリケーションは自動的に終了します。出荷時のバッテリーは80%、現在は79%です。30%まで減少した時に警告します」
この口が───。
つい先程まで、自分の股間に貼り付いていたのだ。
「次にメモリーですが、初期メモリーの500テラバイトは全て基本動作の維持とクインシーシステムに割り当てられています。初期メモリーのみでの攻撃出力は30%が上限です」
何となくもやもやしていた一護だが、メモリーと聞いてウッカリびくついた。だが、パソコンの方は(それは当然)冷静極まりない。
「メモリーの増設は私本体で500テラバイトまで可能です。外付けで1,000テラバイト、計1,500テラバイトまでの増設が可能です」
もはや話の内容は一護にはついていけない。
黒崎家にもパソコンはあるが、医院の方で主にレセプト作成に使われていて、一護は殆ど触った事もないのだから仕方ない。
「…ん? じゃあ増設しなくても、取り敢えずバッテリーさえ足りてりゃ大丈夫なんじゃねえか?」
「…それは状況によります。出現した虚が強大であった場合、初期メモリー分で撃退出来なければご主人様は死にます」
「…」
一護は頭をがしがしやって、溜め息をつく。眉間の皺はそれはもうすごい事になっていたが、パソコン相手では通じているのかいないのか。
「…あのな」
「はい」
「俺は今まで、一回だってそのホロウってやつを見た事がねェ」
「はい」
相槌というよりはさも「そうでしょうね」という返事に少々苛つきながら、一護は続けて言う。
「これからだって、ソーグーするとは限んねーだろ」
「本年中の遭遇確率は60%以上と計算します」
無情にも、コンピューターは計算数値を口にした。
「…何?」
「空座町での虚の出現率は年々上昇傾向にあります。虚がご主人様の霊力に気付かない確率は低いと思います」
「…俺の霊力」
「ご主人様の霊力は異常ですから」
「…」
キッパリ異常と言い切られて、一護としてはリアクションの取りようもない。自分では、ちょっと最近寄ってくる霊の数が多くなってきたかなと思う程度なのだ。
だが、しかし、だからと言って「じゃあメモリー増設しとくかあ~」という気には、残念ながらならない。
「あー。取り敢えず、言っとく」
「はい」
「メモリー増設はしねーからな。絶対しない」
「…それは」
何か言い募ろうとするパソコンを遮って、一護はベッドから立ち上がる。何をどうしても、イヤなものはイヤなのだ。
「…了解しました」
梱包を踏み越えて床に下りた時、細い声が聞こえた気がして振り向くと、一護のパソコンが一護に向かって頭を下げていた。
(…)
そう、これはパソコンで、つまりはユーザーの意向に逆らう事など出来ないのだろう。
急に自分が大人げなかったような気がしてきて、一護は足元の梱包材を拾い上げた。何でもないフリで、ゴミを片付け始める。
「ホラ、どけ。片付けっから」
「は、はい」
「必要なものは、そっち除けとけよ」
「はい」
柩の中には、白いブーツと何やら小さなケースがいくつか入っている。一護はそれらの事を言ったつもりだったのだが、彼のパソコンは片手でひょい、と柩をつまみ上げた。
「……」
それをベッドの上に乗せたという事は、その柩も必要なもの、なのだろうか。半分驚愕してその様子を見つめていると、彼は、木箱を解体し始めた。
素手で。
メキメキ、バキバキと結構な音を立て、見る間に1メートル程の長さに揃えられてゆく。床に落ちていた梱包用の紐を拾うと、器用にそれらをまとめて縛った。
緩衝材を突っ込んだゴミ袋の口を閉じかけたまま、一護はそれを見守る格好だ。
「あの…これはどちらに?」
「あッ!? ああ…勝手口の外に…」
「了解しました」
するとパソコンは、かつて木箱だった残骸を抱えると躊躇なく部屋を出て行った。
「…ん?」
(あいつ、この家の事は何も…)
勝手口と言ったはいいが、この部屋で開封されたパソコンがその場所を知る由もない。一護は慌てて袋の口を縛ると、それを掴んで部屋を飛び出した。
しかし、そこには既に姿はない。
(…?)
不思議に思いつつ階下へ降りると、居間を通って台所に入る黒髪を発見した。その足は迷う事なく勝手口に向かう。横では遊子が包丁を握ったまま、ぽかんとその様子を眺めていた。
「そちらもでしょうか?」
「へッ?」
一護は、唐突に振り返ったパソコンの視線が自分の持つゴミ袋に向けられるのを見て、一瞬遅れて科白を理解する。
「あ、ああ…これも」
突き出せば、彼は当然のように受け取って、そこにあるサンダルをつっかけて外に出た。何となく心配で覗き見れば、外に置いてある青いゴミバケツに緩衝材のゴミ袋を入れ、木箱の残骸はその横に立て掛けている。
「…遊子、お前教えたのか?」
「え? 何を?」
「いや…」
青いバケツに蓋をすると、パソコンは当然戻ってくる。
一護と遊子の視線を一身に浴びても、動じる様子がないのは当然か。サンダルを脱いで上がったパソコンは、二人を無視(?)してすたすたと台所を横切る。そして当然のように納戸へ行き、中から掃除機を取り出すのだ───。
「…お兄ちゃんが教えたの?」
「…俺は何も…」
掃除機を持って二階へ上がる足音に、我に帰った一護は慌てて後を追った。
「おいッ」
「はい」
声をかければ、コンセントを差し込むのに膝を折っていたパソコンが、極自然な動作で一護を見上げる。しかし何をどう聞いたらいいのか。
「…何、してんだよ」
我ながら間の抜けた質問をしている、と一護は言い終わらない内から後悔した。
「掃除機をかけます」
見れば分かる。
その通りだ。
自室のフローリングは、先程の緩衝材と木箱の細かな屑でいっぱいなのだ。だが、一護が聞きたいのは、そういう事ではなく。
「や、てゆーかな。何か…。オマエ、教えてもいねえ事、何で知ってんのかなー、と…」
聞き方がまずかっただろうか?
パソコンは一護を見上げたまま少々首を傾げ、まばたきをする。要領を得ない、という風情だ。
「…掃除機の事でしたら、作りが簡素なので、使用方法は見れば理解可能です」
「う、そーゆー事じゃなくてだな…えーと…、それがあった場所、そーだ場所だ。勝手口がどこにあるか、とか」
「…それは」
パソコンが、一瞬言い淀む。
「…ユーザー登録の際、ご主人様から周辺情報も頂いておりますので…」
「…」
今度は一護が言い淀む番だ。
気まずい。
「じ…じゃあ、アレか? この家の事は、もう分かってるって事か…?」
「はい」
何となく冷や汗が出る。
強制入力だと、書き込む情報の取捨は出来ないと言っていたのを不意に思い出したせいだ。
「…ガッコの事も?」
「はい」
「……成績とか?」
「はい」
「………ダチ関係とか…?」
「はい」
イヤな予感だ。
帰ってきた時に見た父親の朗らかな笑顔、それからずっと続く嫌な予感。
「ご主人様の記憶に基づくデータですので、実際とはズレの生じる可能性もございますが」
「待て…。つまりアレか? この家の中に限らず、俺の知ってる事は全部お前も知ってるって事か!?」
「…はい、思考以外は…」
一護は、頭を抱えて壁によろめいた。
クラクラする。つまりそれは、プライバシーも何もないという事に他ならないではないか。
「よし。分かった。捨てろ」
「は…?」
頭を抱えたまま、一護は言った。
「取り敢えず、家の中の事はともかくとして、それ以外のデータは捨てろ」
彼を外へ連れ歩くという事など念頭にない。家に置くなら、家の中の事は知っていて貰う方が面倒はないだろう。だが───成績やら交友関係やらちょっと人には言いたくない事情やらを無断で記録していたなんて、余りにも無神経だ。
いや、本当は無断ではないしコンピューターに神経を求めるのも無茶な話なのだが、いっぱいいっぱいの一護はそこまで気が回らない。
だが、一護のパソコンは。
「嫌ですッ」
声を荒げた───。
振り向くと、柳眉を歪めたコンピューターが、すっくと立ち上がったところだった。
「駄目です。困ります!」
人間で言えば、怒りの表情だ。
だが、色々切羽詰まっている一護は反抗された事実しか認識出来ない。
「こ、困る、だァ!? データの修正は後でいくらでも出来るって言ったじゃねーかッ」
「い、言いましたが、嫌なものはイヤです!」
「な…何が『イヤ』だ、コラ…」
「あくまでもメモリーを増設して頂く事を前提としておりました!」
メモリー増設と聞いて、一護は一瞬言葉に詰まった。
「私は優秀です! シリーズ中でもトップエンドの性能を誇っております! メモリーアップが期待出来ないとしても、初期メモリーだけでご主人様をお護りします!」
一護がたじろいでいる事に気付いているのかいないのか、彼は更に言い募ろうとして、しかし飲み込んだ。
俯いた顔は、歪められたままだ。
けれど、一護にはそれが今にも泣きそうな雰囲気に、見えてしまった。
「…おい」
「本来なら…ご主人様と共に過ごしてゆく中で、ご主人様に関するデータを上書き・保存出来るのですが…私の場合は事実上不可能です。ユーザー登録の際に頂いたデータしかありません。捨てたら…それまでです」
一護はショックを忘れて、俯くコンピューターを見つめた。
「お仕えするご主人様のデータを…ひとつでも多く持っていたいと思うのは…当然です」
「…」
何やら───。
ものすごい罪悪感だ。
メモリーを増やせば、確実に今よりも性能を活かす事が出来るのだろう。だが絶対増設しないと宣言された為に、このパソコンはその範囲で何とかするしかないのだ。
絶句する一護を再び見る事なく、彼は俯いたまま掃除機に手を伸ばした。唇を引き結んで掃除機をかけるその姿を、一護はただ突っ立って眺めるしか出来ない。
「…」
そこでようやく、一護は気付く。
(…怒ってる…?)
声を荒げた、睨み付けてきた、なんか非難された。
話の内容は勿論パソコン的な事だが、今の態度はちょっと、人間的だ。
「…おい」
「何でしょうかご主人様」
手早く床を綺麗にしたパソコンに声をかければ、振り向きもせず慇懃な返事だけを寄越してくる。
「…お前、怒ってんのか?」
「私はコンピューターですから、怒るなんてありえません」
「…」
掃除機の本体からホースを外しながらのお返事だ。
人間なら、それを「怒っている」という状況だ。
「人工知能を搭載しておりますから、私は自分で考え、判断します。ですが人間の喜怒哀楽という概念は持ち得ません」
「や…、でもよ…」
「怒ってません!」
掃除機を抱えて立ち上がり、一護のパソコンはようやく一護と向かい合った。
深く寄せられた眉間、釣り上がる柳眉、射すくめるような瞳、への字に引き結ばれた唇、ついでにその手は握り拳だ。
「…怒ってんじゃん…?」
「違います!」
「や、どう見ても怒ってるって…」
不意に、それが泣きそうに見えて、一護は口を開きかけたまま黙った。パソコンは、また少し俯いた。
「…ご主人様は、私をお嫌いのようですから、そう見えるのだと思います…」
「お、お嫌いって…」
「ご不興を買わないよう、なるべくご主人様のお目に止まらない努力は致します。…ですので…道をお開け下さいませんか」
「え?」
ドアの真ん前に突っ立っている一護とわざわざ向かい合ったのは、掃除機を片付ける為だったようだ。様子を窺うようにのろのろと移動すると、一護の方など見もせずに出て行ってしまった。
「…」
階下へ下りる足音が去ってしまうと、急に部屋の中がしんとする。
部屋の中を振り返る。
綺麗になったフローリング、机上の時計は4時15分、ベッドの上の白い柩。
(…何て日だ)
もはや勉強する気力は殺がれてしまった。
制服のままだった事を今更思い出し、気の乗らないまま私服に着替える。隅に放ったきりだった鞄から教科書とノートを出すと、取り敢えずそれを机に置いてみた。
それでも、一旦殺がれた気力は容易には戻って来ないものだ。椅子に腰掛けて、深く溜め息をつく。
一番上の社会科の教科書を両手に持ち、表紙を睨む。
「…」
艶やかな、
黒髪。
伏せられた瞼。
長い睫毛。
なめらかな舌。
(…ッ!!!)
何やら思い出し、一護は慌てて教科書を床に投げ付けた。
(な、なんか今ヤバかった…)
背中の冷や汗にかぶりを振る。
勉強しなくてはと思う事で平静を保とうとしているのだという自覚はあった。現実逃避である。一護は沸騰しそうな頭のまま、次に数学の教科書を掴む。
しかし、数字の羅列はまずかった。
コンピューターを連想させられる。
「………」
いや、今は何を見ても駄目なのだろう。
泣きそうな顔が脳裏にちらつく。パソコンが泣き落しだなんて、反則もいいところだ。しかし、データを捨てろというのはそんなに酷な事だったのだろうか? 一護にはいまいち理解出来ない。
数学の教科書をとうとう放り出して、一護は立ち上がった。ベッドに転がろうとして、柩に阻まれ、立ち尽くす。
(…そういやあいつ、下に行ったきりだな)
この不吉な柩をどうしてくれよう? 納戸には入らないし、外の物置きにだって入るかどうかも不安な、巨大な柩。ベッドの下に入れるには、厚みがあり過ぎる。
(…仕方ねえ)
憂鬱な溜め息を吐いて、一護は部屋を出た。
「…あれ?」
階下へ下りても、遊子が台所にいるだけだった。思わず出た声に、振り向いた遊子が口を開いた。
「あ、お兄ちゃん。何? 終わったの? お父さんと夏梨ちゃんなら、受付にいるよ。もうすぐレセプト〆切だから」
今日は午後が休診だ。
以前は手計算だったレセプトも、今ではパソコンで一発。ただし、それは何もトラブルがなければの話だ。保険証を忘れた患者に便宜で保険扱いをして後にその保険の確認が取れていないだとか、保険の種類が変更になったのに前の保険証で診察を受けていただとか、毎月何かしらあってすんなりとは終わらない。
しかし今の一護の疑問符は、家族の居場所についてではなくパソコンの行方だった。勿論、受付にあるデスクトップのパソコンではなく、動いて喋って怒って睨む方のパソコンだ。居間をぐるりと見渡して、ついでに台所も覗き込むが、見当たらない。
仕方なく医院のエリアに足を踏み入れる。
診療室と病室が無人なのを確認し、受付を覗く。しかしやはりそこにもあのパソコンの姿はなかった。
「一護。どうした? もう設定終わったのか?」
「あ…いや」
所在なさげな息子に気付いた父親が顔を上げる。夏梨はモニターとにらめっこだ。ちょっと、と言って一護は父親を呼び出した。
「何なんだよ、アレ」
隣の診療室で、声をひそめつつ父親を問い質す。
「アレって『雨竜』か? どうかしたのか」
「どうもこうも…おふくろは何だってあんなモノ…」
「さっき言っただろうが。お前の為だって」
椅子を引き寄せて座ると、ようやく気が抜けて溜め息が出た。そんな息子の様子に、父親は眉を八の字にする。
「い…一護、もしかして…上手く出来なかったのか…?」
「どーゆー意味だよ!」
あのパソコンについて自分よりは確実に多くの事を知っている素振りの父親に、一護は苛ついた。ユーザー登録の事だって、明らかに面白がっていたのだ。
「…と、とにかくッあんなもん俺はいらねェ! おふくろには悪いが返品だ!」
「…一護」
苛つく息子を前に、父親は存外冷静に言った。
「なら初期化して、夏梨にやるぞ」
「…は?」
「ものすごく高いからな、あれは。一旦起動させちまったからには中古扱いだから、殆ど金は戻って来ないしな。そもそもウチの中で一番霊力が強いのがお前だからお前にやったんだ。高いから一台しか買えない、でもウチに一台あれば大体はカバー出来るって寸法だ」
「な…?」
「本当は夏梨にも必要だったって言ってんだよ」
ふざけている訳ではなさそうだった。
デスクに片肘をついて、まるで患者を診るような顔で一護を見ている。
「で…でもアレ、男だぜ!? 夏梨には…」
「夏梨が気にすると思うか? それにあれはパソコンであって、性別はないぜ」
「イヤ気にするだろ! 外見は男なんだから!」
「気にしてんのはお前だろ、一護」
「…ッ」
思わず声に詰まる。
全くもって、その通りだった。何も言い返せなくなって、しかしふと疑問が湧く。
「か…仮に夏梨にやるとして、め…メモリー増設はどうすんだよ…」
一護を悩ませる最大の疑問に対し、父親の答えはアッサリ返ってきた。
「血液で代用だな」
「…血液、だぁ?」
「そんな大量に必要な訳でもなし、夏梨なら注射器なんて見慣れてるからな。問題ないだろ」
「ちょ…ちょっと待て、じゃあ俺だって別に血液でもいいって事だよな…?」
血液とは盲点だった。
しかし、あのパソコンからそんな事は聞いていない。取扱説明も、そういえば途中だった気もしなくもない。確かめる必要がありそうだ。
「お前は男なんだからわざわざ痛い思いしなくたっていいだろーに…。男が血液で代用だなんて、不能になってから考え…はッ一護お前まさか不の」
「有能だー!!!」
本気で心配そうな顔をされてプチ切れした一護は、思わず力の限り父親を殴り倒した。
そこへ、隣の受付から夏梨が顔を出す。
「ちょっと煩いよ! こっちは細かい数字見てるってのに…」
「あ…夏梨っお前アレ見なかったか?」
「は? 何『アレ』って」
「アレだよ…ホラ、石田とかって…」
「ああ雨竜? 知らないよ」
不機嫌な夏梨は怪訝そうな顔をする。
「何で一兄のパソコンが一兄と一緒じゃない訳? 自分のものぐらいちゃんとしつけなよ」
「…」
「一兄がヘタクソ過ぎて逃げられたんなら仕方な」
「わああああ!!!」
夏梨の毒舌は今日も絶好調だった。おうちの外でそんな破廉恥な事は言っちゃダメだよという父親の小言を背中に聞きながら、一護は診療室を飛び出した。
(どこまで知ってるんだ夏梨の奴!!!)
ダッシュで居間に戻って、振り向いた遊子に一応尋ねる。
「石田来なかったか?」
「え、来てないよ。…お兄ちゃんの部屋じゃないの?」
そうか、もう戻っているかも知れない。
一護は少々落ち着きを取り戻して、階段を昇った。
だが、開け放したままだった自室には、やはりあの黒髪の姿はなかった。
(…?)
掃除機を片付けに行っただけの筈だ。片付けたら、あの仏頂面で不承々々戻ってくるのだと思っていた。何故なら、まだあの柩を片付けていないからだ。
(ま…まさか外に出たりしてねェだろうな…?)
蓋の開いた柩を覗き込むと、白いブーツが目に入る。しかし先程は勝手口のサンダルを使って外に出ていた、他の靴を使わないとは言い切れない。
慌てて玄関へ駆け降り靴の数を確認するが、減ってはいなかった。勝手口にも、いつも通り一人分のサンダルしかない。
「…どこ行ったんだ…」
「え、雨竜くんいないの?」
思わず口に出た疑問符を遊子が拾う。
気にするなと手を挙げて、一護は居間を出た。しかし見当もつかなくて、風呂場やトイレまで覗くが、あの黒髪を見つける事が出来ない。もう一度二階へ上がり、父親と双子の部屋も確認するが、やはりいなかった。
(…まさか裸足で出てったなんて事は…)
あんな目立つ格好をした『人間』が裸足で出歩いて、ご近所の皆さんの目に触れるのかと思うと恐ろしい。
しかし、玄関の扉の音は聞いていない。大きい音ではないが、意外に重く響くので、開閉の動作があれば大抵は気付くのだ。やはりまだ家の中にいるのか。階段を降りたところで立ち尽くす。
「…かくれんぼじゃあるまいし」
二階には、いなかった。
医院にも居間にも、風呂場にもトイレにもいない。後はどこを探せと言うのか?
ふと、階段下の納戸が目に入る。石油ストーブとか旅行用のスーツケースとか、普段使わないものを突っ込んであるが、掃除機もここにしまっている。そういえば掃除機は戻したのか? 軽く薄い木の扉を開ける。
あった。
そして、その奥に。
「…ん?」
白い服が、見えた。
納戸の上段には空のスーツケースや最近は殆ど使わない扇風機などの軽いもの。下段には重いもの。
左端に石油ストーブ、奥に(父親の)衣装ケース、そしてその手前に件の掃除機、その隙間に───。
「…何やってんだ、お前」
あの黒髪がいた。
いわゆる体育座りで、顔を伏せている。声をかけると、ピピッと小さな音がして、狭い中顔を上げた。
「…ご主人様」
その顔は当初と同じ無表情で、一護は何となく安心して溜め息をついた。
「ここ、物置きだって分かってんだろ。何やってんだよ」
「…待機しています」
「待機だあ?」
何を待つのか。
虚とかいう悪霊が出る時まで?
「待機はいいけど、何で物置きなんだよ」
「…ご主人様が、ご在宅の時は…見えないところで控えます」
「…」
言ってぷいと奥へ顔を背ける。
ああ、あれかと一護はようやく思い当たった。ご不興を買わないよう云々という、アレだ。
まだ怒っていたのか。
いや、これは。
「何拗ねてんだ…」
「…拗ねてません」
ご主人様から顔を逸らして膝を抱える姿は、しかしどう見ても、拗ねている。ちゃんとしつけろという夏梨の声が蘇り、一護はぽりぽりと頭を掻いた。
「…あー…。悪かったよ。取り敢えず出てこい」
「私は拗ねていません。ご主人様が私にお謝りになる事は何もございません」
「…」
振り返りもせずに、言葉だけは冷静な声が、一護に向けられる。
「ああそうかよ。分かった。だから出ろ」
「…」
しかし彼のパソコンは、微動だにしない。
「おい」
この状態の、一体どこが『拗ねてません』なのだろう? 本気で言っているのだとしたら、随分お粗末な人工知能だ。
「聞こえてんだろ、石田」
「…」
しつこく呼んで、ようやく振り向いてくれた。納戸の中の暗がりでもハッキリ分かる、情けない表情。
「…今…私の事をお呼びになったのでしょうか…?」
「はあ? …お前以外に誰かいんのかよ」
「…いえ。ですが今『石田』と…」
今度は一体何を言い出すのか。
「ち、違ったっけ?」
「いえ、私はまだ名前がありませんので…」
「え?」
一護には、どうにも訳が分からない。
自分の耳が聞き覚えた名前が間違っていた訳ではない、と思う。このパソコンが自己紹介した時、父親が危ないところでストップをかけた時。それに夏梨や遊子に『石田』と言えば通じた。
「お前、石田だろ? 石田雨竜」
何故だか───。
パソコンが、顔を輝かせたような、気がした。
ぽかんとこちらを見上げてくるだけなので、促すように一護は手を差し伸べる。すると意外にも素直に、その白い手を伸ばしてくるのだ。
ようやく納戸から連れ出して立たせる。
手の感触は肉と骨を感じさせ、暖かく、まるで人間と変わらない。不思議な事に、その時一護はあのトラウマを思い出す事はなかった。
至近距離で向かい合ってみると、ほんの僅かに一護の方が背が高い。黒髪に埃がついているのに気がついて、払ってやる。
「…石田雨竜というのは、私の個体識別コードで…」
「ああ?」
どこかぼんやりしたように、しかしその黒い瞳はじっと一護を見続けた。
「個体識別って…。番号とかじゃねえし、普通それが名前なんじゃねえの?」
「…」
「な、何だよ、違う名前がいいのか?」
「…いいえ。ご主人様の下さる名前でしたら、私は…」
「…。んじゃ、石田雨竜って事で」
実際家人は皆このコンピューターの事を『雨竜』と呼んでいる。変えようにも特に思い付かないし、もう既に馴染んでいるのならそれでいいだろう。一護としてはそういう軽い気持ちで言った、のだが。
「…はい」
一護のパソコンは、笑うのだ───。
「今から私は、石田雨竜です」
それは嬉しそうに、はにかんだように、笑うのだ。ああ、こういう笑顔は、人間なら「幸せそう」と言うものだ。本当に感情などないと言うのだろうか? たとえプログラムされた表情だったとしても、この場でそれを選ぶのは、その人工知能に他ならないというのに。
「あー…。あのな」
「はい」
ヤバいな、と一護は思う。
今頃になって、とんでもなく厄介でとんでもなく面白いものを貰ったのだと自覚した。
「待機、別に物置きとかじゃなくていいから」
「…はい」
ただじっと見つめてくるそのパソコンには、一護はどう映っているのだろう? 恐らくその目はカメラだから、きっと、見えるままが記録されるのだろう。
居間からひょこりと遊子が顔を出し、見つかったんだねと笑いかける。
「お夕飯の時、ちゃんと紹介してね」
「あー、分かってる」
「六時には出来るからねー」
取り敢えず、このコンピューターはあの双子にはとても気に入られるだろうな、と思う。意外にも、妹達にはこれがコンピューターであって人間ではないと、しっかり認識出来ているようだ。人型である事に戸惑いを見せないのは、彼女らがまだ子供だからだろうか?
六時まで、あと一時間と少々。
「お前、あの棺オケどうすんだ?」
「は…カンオケ、ですか?」
二階の自室へと連れ立って歩きながら、これに慣れればいいのだと自分を納得させる。
「…ご主人様、これはシェルターです」
「シェルター?」
「霊気を遮断出来ます。万が一の時にはここにお隠れ下さい」
「…棺オケに入るのかよ…」
「シェルターです、ご主人様」
妹達のように、彼を鉄腕アトムか何かみたいに思って、興味を持てばいいのだ。
人工知能と言うからには、こうして人間と接し続けていれば今よりもっと人間らしく振る舞う事も出来るようになるだろう。そうすれば、買い物ぐらい行って貰っても怪しまれない程度にはなるかも知れない。
柩、いやシェルターの中からケースを取り出して説明を始める石田雨竜に、一護はこっそり苦笑した。これは一護のパソコンで、一護のプライベートを知っているけれど、一護以外の人間にそれを喋ったりはしないのだ。金庫みたいなものだと思えばいい。
そう考えて、少々一護は気分が軽くなった。
だが───。
このパソコンを一護が使いこなせるようになるのはもう少し先の話で、それまでの間散々に振り回されるのだという事は、言わぬが仏───だったりする。