シルバーリング

 

  シルバーリング

 
 黒崎家に『雨竜』がやってきて一週間が経つ。
 普通のパソコンと違って自分で考えて動く分、こちらがラクな事は多い。だが思いも寄らない事で手がかかるので、結果としてこの一週間、一護はろくに勉強も出来ずにいた。
 父親は、家政夫扱い。
 夏梨はペット扱い、遊子はおもちゃ扱い。
 一護だけが、いまだにどう扱って良いのか分からなかった。それは、一護が雨竜の所有者だからに他ならない。
 雨竜は、基本的に一護の命令がなければ動かない。家人からのお願い───お皿洗ってだのお茶煎れてだの新聞取って来てだの、当初はそんな事も一護の許可なしにはしなかった。数日が過ぎるうちに、それらの些末な行動は常に許可が出ると学習し、一護に尋ねずに請け負うようになったのだ。
 ただ、雨竜に出来るのはそういう簡単な事だけだった。
 特に、料理だとか妹たちの宿題を見てやる、という事は頑なに「出来ません」の一点張りだった。超高性能のパソコンが何故そんな事も出来ないのかと問えば、悔しそうに唇を噛んで俯くので、ああこれはメモリーがあれば出来るのだろうなと一護も思い当たった。思い当たるので、それ以上は何も言えなかった。
 メモリーが充実していれば、家人にとって『家事手伝い』レベルの雨竜も『伝説の家政夫』となれるのだろう。
 だが、メモリー増設はしていない。
 父親から聞いた「血液で代用」という話を雨竜に尋ねると、何やら酷く傷付いた様子で「そこまでして頂かなくても、初期メモリーだけで充分です」と拳を震わせて拗ねるのだ。
 おまけにあの日、柩の中に入っていたケースの内のひとつが、中を見せてくれないままゴミ箱に捨てられているのを発見して揉めた。
 それは必要ないものですと言い張るので、却って気になって開けてみると───。
『───何これ』
 薬包状の小さな袋が、いくつも入っていた。
 中身は透明の液体で、パッケージには何の記載もない。
『…接続補助剤です』
『接続補助? 何か繋ぐのか?』
『…ですから、私には必要のないものです』
『必要ねえものが入ってるかよ。一応取っとけって』
『…ではご主人様がお預かり下さい』
 酷く気に入らないもののようだったので捨てた方がよかったのかとも思ったが、念の為と机の引き出しに放り込んだ。
 それから三日程して唐突に、それは潤滑剤というものではないのかと気が付いた。
 鈍い。
 鈍すぎるぞ、俺。
 救いはその場で気付かなかった事ぐらいだった。
 絶対にメモリー増設はしないと言われた雨竜は、それを不要物と判断して捨てたのだ。こんなモノがあるという事は、つまり、メモリー増設はユーザー登録の時のアレではなくソレを使うという事で(スミマセン)一護はますます複雑な気分になった。しかもあれだけの数が入っていたという事は、つまり、メモリー増設作業はそれほどに回数が必要という事ではないだろうか?
 色々恐いので尋けないけれど、そんな訳で一護は雨竜が頑なになる場面では、受け流す事にしたのだった。
「ご主人様、夕食の準備が整いました」
「あー、すぐ行く」
 コンコンと控えめにドアを叩き、開けないまま伝えられる言葉に、実はまだ雨竜があの事を気にしているのかとも思う。
 雨竜は、一護に嫌われていると思ったようで、なるべく姿を見せない努力をすると言った。そして納戸へ隠れたりした訳だが、以来どうも、一護を避けている節がある。明確に避けられているとは言えなかったが、姿を見せずに済む事は今のように済ますのだ。
 一護が険しい顔をしているのが良くないのだろうか? しかしそれは雨竜の前だけでなく、常にそうなのだ。そしてこれはもう、自分ではどうしようもない。
 開いただけで全く気の乗らなかった教科書を閉じると、一護は自室を出た。
「買い物…?」
 動かしていた箸を一瞬止め、一護は怪訝な声を出した。
「いつまであの服着せとく気だ、お前」
「…」
 父親の言にちらりと雨竜を振り返る。自分の事を言われているのだと気付いた雨竜と目が合った。
 確かに、それも尤もな話だ。
 ここ一週間で見慣れてしまったけれど、この白い服は結構目立つ。アオザイみたいなデザインだし、何より上下揃って白というのが目立って仕方ない。
 人間ではないから垢で汚れる事はないだろうが、だからと言って事情を知らない他人が見てそうと分かる訳でもない。昼間はどうやら医院で父親を手伝っているらしいし、常に同じ服では何度も訪れる患者に不審を抱かれ兼ねない。
(白だから、まあ白衣だと思われてるかも知んねーけど)
 段々に寒くなる時期に、この薄着のままでいさせる事も、他者に不審を抱かせる原因となるかも知れない。と言うか、黒崎さんちは居候の石田くんにコートも与えてあげないのかしらと噂されそうでもある。普段はどんな噂を立てられようが無視出来る一護だが、雨竜に関してはそっとしておいて貰いたいのが正直なところだ。ちなみにご近所の奥様方は、噂を広めるスペシャリスト揃いだ。話に尾ひれが付いてしまったら最後、背びれも胸びれも自動的に付いて、とんでもない事になってしまいそうだった。
 だが、それでも。
「…別に、服ぐらい…俺の着せてもいいんじゃねえ?」
「まーそれでもいいけどな。体格似てるし」
 ただでさえ高い本体に、更に金をかけてやる義理は一護にはなかった。
「似合わないと思うけど…。雨竜に、一兄の服」
「ああ?」
 半分冷静、半分呆れたように呟く夏梨に、何となく想像させられる。
「…」
 させられるが───自分の手持ちの服と雨竜とが、どうも上手く繋がらない。辛うじて想像出来たのは、制服姿だけだった。
(イヤ、それじゃダメだろ…)
 制服は一護が着るのだ。まあ夏服はあるけれど、いくら家の中とは言え冬場にそんな涼やかな格好をさせてはおけない。
「…やっぱ買うか」
「あの…私は、このままでも…」
 お茶を煎れて台所から出て来た雨竜は、申し訳なさそうに断ろうとする。
「お前の都合じゃねえよ、こっちの都合」
「…はい」
 足元を見れば、素足に客用スリッパを履いている。
 パソコンは少々寒いぐらいの方が良いと聞いた事がある。しかし、このパソコンはどうなのだろう?
「お前、寒いとか暑いとか…どっちがいいとかってある?」
「いいえ。本体温度は36度に設定してあります。環境としての気温は、プラスもマイナスも50度以上になりますと、動作に支障をきたす可能性がありますが」
「ふーん…。じゃ東京にいる限りは問題ねえんだなー」
「はい」
 食卓の上の空いた食器を片付けながら答える雨竜は、まるで使用人だ。たった一週間でそんな風に馴染んでしまうのも恐ろしい。
「ねえねえ、雨竜くんは、体の温度変えられるの?」
「はい」
 遊子が興味津々で雨竜を覗き込む。
「じゃあ、寒い日に湯たんぽ代わりになったり、暑い日にアイス●ン代わりになったり、出来るの?」
「はい、可能です」
「えーっいいなあ、お兄ちゃん!」
「…」
 遊子にとっては、どうやら雨竜はパソコンというより万能ロボットという位置付けらしい。
「何で俺がこいつと一緒に寝なきゃなんねーんだよ」
「ええッ湯たんぽ代わりにしないの!? だったら今度貸してー!」
「寒いなら夏梨と寝りゃいいだろ」
「じゃあ夏~、暑い日貸して!」
「クーラーかけろ」
「お兄ちゃん、ケチー!」
 いつもならこういう会話に絡んでくる筈の父親は、ニヤニヤと不気味に一護の様子を窺っている。一護は無視して、雨竜の煎れたコーヒーに口を付けた。
 父親には緑茶、夏梨と遊子は日によって違うが大抵は紅茶、一護にはコーヒー。特に指定しなければ雨竜は食後に「お茶」と言ったら、それらを運んでくる。家人の習慣は、教えた訳ではない。雨竜は「知って」いるのだ。
 この一週間で、何となく分かってきた。
 雨竜は一護の習慣や病歴など、つまり体に記憶されている事は完璧に把握している。古い記憶   過去何度も反復し、強く残る記憶も把握している。それらは細胞に記録されていた情報、というらしかった。
 勿論それらはユーザー登録時の情報で、雨竜はそれ以降の情報の更新は、メモリー増設時にしか出来ない。またはすっかり初期化してしまうか。
 しかしそのどちらもが例のアレなので、断固拒否の一護を前に雨竜はただ黙るのみだった。
「まあとにかく、上下いくつかと下着とか、適当に見繕って来いや」
「…」
「あたしも行くー!」
 遊子は何の戸惑いもなく、雨竜というパソコンを受け入れている。家事を手伝う分、馴染むのが早かったのかと思う。
「遊子、あんたはダメ」
「えーっ何でッ! 夏梨ちゃんも行こうよう」
 小学生は、中学生よりは帰りが早い。
 更に、父親は自宅が職場だ。
 雨竜を家に置きっ放しという点で、結果的にユーザーである一護が一番接触時間が短い、という事になっている。
「一兄と雨竜の二人で行くの。ね、お父さん」
「夏梨はよく分かってるなァ~!」
「ちょっ…、こいつ連れてくのかよ!?」
 夏梨の科白にぎくりとなる。
 体格が似ているのだから、自分と同じサイズで適当に選んでこようと思っていた一護である。雨竜を家から出す事など考えてもいなかった。
「着る本人を連れていかない気か?」
「だ…だってこいつ…」
「おーおー、独占欲が強いねぇ」
「ど…ッ!?」
 見当違いはこの父親の常だ。
 だが、今の科白はあからさまに自分を誘導しているものだと一護にも分かる。
「何の為の人型だと思ってるんだ。人目に触れても怪しまれない為だろうが」
「人前で『ご主人様』なんて呼ばれたら思っくそ怪しいじゃねーか!」
「名前で呼ばせりゃいいだろ。頭悪ィな、お前…」
「…」
 振り返ると、雨竜は少々困ったような顔をする。
「…可能か?」
「…はい」
 本当はイヤなのだけれど、みたいな顔で返事をされて、何だか居心地の悪い一護だ。
 そういえば、家人を名前で呼ぶのは聞いた事があった。だがそれは「一心様」「夏梨様」「遊子様」というもので、一護としては「一護様」なんて呼ばれた日には鳥肌どころでは済まない。
「…『様』はナシだぞ」
「こ、困ります…」
 釘を刺すと、ぎくりとする雨竜だ。
「念の為に言っとくけど、『さん』とかもナシだからな…」
「そ、そんな…」
 ものすごい衝撃を受けたような雨竜を見て、家人は全員ぽかんと口を開けた。
「…一護、お前…すごいなあ…」
「はあ?」
「パソコンを困らせるなんてなあ」
「…」
 バカにされた気がして、一護はむっとする。
「雨竜が困ってるとこ、あたし初めて見た…」
「うん、あたしも…」
 それはそうだろう。
 一護以外の人間にメモリーを要求出来ない雨竜だからこそだ。ユーザー以外の人間のコマンドを無視する事など当然だが、メモリー増設もしてくれないユーザーの無茶なコマンドに困るのも尤もな話、という事だ。
「あのな。俺たちは傍から見たら、同年代ぐらいだろ」
「…はい」
「同年代の奴が『様』とか『さん』とか『君』とか付けて呼んでたら、おかしいって分かるか?」
「……理解します」
 どう見ても納得しかねますという顔が俯きつつ、そう答えた。一護としてはもう、溜め息ばかりだ。
 意気消沈の面持ちで食卓を片付け始める雨竜を見ながら、父親は立ち上がろうとする一護を引き止める。
「俺が思うところ、アレはメモリーが足りてりゃどうにでもなるレベルだぜ、一護」
「…うるせえな」
「以前見た奴は雨竜より大分型落ちだったがな、喋ってても普通の人間と見分けは付かなかった」
「え…」
 ひそひそと話すその内容にうんざりしかけた一護は、はっとする。
 そうだ、雨竜は製品で、商品で、シリーズ中最高性能だと言っていた。つまりこういうパソコンが雨竜以外にも存在するという事を、一護は失念していたのだ。
「ホラ、これで色々用意してやれ」
 父親は胸ポケットから折った紙幣を取り出すと、一護に握らせた。その数を確認して、一護は顔をしかめる。
「五万…? こんなにいらねえよ」
「安物で固める気か、お前。今日びユニ★ロだって高くなってるんだぞ! まあ気にせず使え、お前の口座から下ろした金だ!」
「俺の金かよ! !」
 思わずツッ込んだ一護だったが、元を辿れば親の金には違いないので、辛うじて拳は引く。
「あとアレだ、家でするのが恥ずかしいなら、帰りにホテルでも寄っ」
「しねえっつってンだろー!!!」
 一旦引いた拳の代わりに足が出る。
 だがこれで、雨竜を連れて買い物に行く事は決定したも同然だった。


 二日後の土曜日、半日で終わった学校を後にして校門へ向かっていた一護は、思わず鞄を取り落とした。
 校門の脇に、雨竜が立っていた。
 姿が見える前から一護には気付いていたようで、目が合うとぺこりと頭を下げる。一護は周囲を気にしつつ、それでも駆け寄った。
「ば、バカ! 何勝手に出てきてんだッ」
「申し訳ございません。一心様に…追い出されました」
 一護の小声に合わせて雨竜の声も小さくなる。ただし、人間のひそひそ声といった風ではなく、文字通りボリュームを下げただけの感が否めない。
「追い出されただァ?」
「一度家に戻るのは遠回りだから、と…」
「昼メシどうすんだよ…」
 校門に私服の人間が立っていれば、当然目立つ。学校から出てくる生徒たちは、物珍しげに雨竜を眺めつつ通り過ぎてゆく。
「…お前、誰にも声かけられたりとか、しなかったか?」
「いいえ、ありません」
「そっか…ならいい」
 この口調は、明らかに異質だ。口を開いたら怪しまれる事請け合いである。ひとまずほっとして溜め息が出た。
 改めて、その格好を見る。
 一護の、去年購入したカーキ色のフード付ジャケットを着ている。これは当時少々大きめのものを選んだ筈が、今年はもう動き辛くなってしまったものだ。その下に、生成の(恐らくは一護の学校指定の)薄手のセーター。セーターの下は何も着ていないようだ。ボトムスは一護がいくつも持っているデニムパンツのひとつで、靴は最近きつくなって履かなくなったコンバース。
(…微妙…)
 型落ちだからとか組み合わせが変とか、そういう意味ではない。何をさておいても、雨竜の顔に合わないのだ。恐らく父親が与えて外に出したのだろうが、夏梨の言う通り一護の服は雨竜には合わない。特にミリタリー調のジャケットなんて、違和感以外の何ものでもない。
「あの…服は、あのままでは目立つと…」
「あー、いい。分かってる」
 じっと見られて、申し訳なさそうに雨竜が言い訳をする。もう少し寒い日なら、あの服でもダッフルコートとか被せれば気にならなかったのに、と一護は思う。
 すると不意に、雨竜は一護の背後に目を遣った。
「有沢竜貴様です」
「えッ」
 反射的に振り向くと、遅れて出てきた井上織姫を待つたつきの姿が目に入る。
「やべ…」
 知人に見られたら、ご紹介を余儀なくされる。
 行くぞ、と雨竜の腕を掴むと一護は走り出した。

 大通りから小路へ入ったところでようやく足を止める。
 一護は少々息が上がっているが、雨竜の方は平然としていた。相手がパソコンだからと分かっていても、何か悔しい一護だ。横目に睨み付けて、歩き始める。
 向かっているのは、駅に程近い場所にあるデパートだ。一護が好んで買いにゆく店はもう少し先にあるのだが、今日は雨竜の服を選ぶのだ、そこでは意味がない。
 昨夜少々考えてみたが、どうしても白のイメージしかない雨竜には、シンプルなカッターシャツぐらいしか思い付かなかった。だが、それならどこで買ってもいいし、本当は必要のないスリッパや下着類なども揃えるのなら、近所の安デパートで充分だという結論だ。
 第一、使うのは自分の貯金なのだ。
 五万も下ろされてしまったら、大した額は残っていないだろう。五万全てを使う気は、更々なかった。
「石田」
「はい」
 振り向けば、雨竜は一護の二歩後ろを歩いている。
「おかしいだろ、それ」
「は…」
「ついて歩くんじゃなくて、隣り歩けよ」
「…はい」
 仏頂面のオレンジ頭に、見るからに優等生面の少年が付き従っていたのでは、なんだか通報されそうだ。
「中ではあんま喋んなよ。喋る時は敬語とか丁寧語とかナシだからな」
「了解しました」
「…」
 一抹の不安を残しつつ、二人はデパートへ足を踏み入れた。
 過去、そう何度も来た事のあるデパートではなかったが、大体の間取りは覚えている。まずは服だ、とメンズコーナーを目指した。
 コーナーはメンズでも、そこで服を選んでいるのは殆どが女性…というか奥様方だった。中学生だけで来ているのは、どうやら一護のみ。何となく苛つき始めるのを自分で感じて、気を逸らせようと服に集中した。
「シャツ二枚とボトムス一本…だけでも軽く一万は飛ぶな…。後はジャケットかコート…靴も要るな、クソ…」
 本当にユ★クロに行けば良かった。だが、今から移動するのには時間が微妙だった。一護はまだ昼食を取っていないのだ。
 金額を抑えるなら、自分のレパートリーの中からいくつか都合するしかない。
 そう決めると、白いシャツと薄く柄の入ったシャツを掴み、サイズを確認して雨竜に押し付ける。
「あの…」
「持ってろ」
 そこで黒のハイネックを発見し、一護は振り返ると突っ立ったまま控えている雨竜に当ててみる。
(…黒でもいいな)
 白しか合わない気になっていたが、どうも黒でも良いようだ。値札が特売になっているのを見て、一護はそれも雨竜に持たせた。
(シンプルなのがいいのか)
 一護は自分の服が派手だとは思わないが、雨竜に大きなロゴの入ったものやら原色使いのデザインやらが似合わない事だけは確かだ。
「ボトムスは俺が持ってるやつ二、三本やるから、買わなくていいな?」
 雨竜は「はい」と言いかけて慌てて口を噤み、小さく頷く。それを横目で確認した一護は、特売の中からトップスをもう三点程見繕った。
 面倒な事は早く終わらせたい。
 幸いアレがいいコレがいいという希望の全くないパソコンが相手なので、一護の基準で選ぶ事が出来る。同じフロアでスーツスタイルのグレーのシングルジャケット(コートは諦めた)と黒の革靴、これまた特売の下着類を掴む。さすがに靴は履かせてみてから選んだが、服の試着は省略した。
「お前の買い物だからな、お前払って来い」
 大体三万円と少しの計算だ。
 雨竜に財布を渡してレジを示す。やり方は分かるかと聞けば、当然頷く雨竜だ。一護の知識は雨竜の知識でもある。
 会計を任せて、一護はレジの横を通り過ぎた。
(…ん)
 ふと、エスカレーター前に小さなコーナーが出来ている事に気付く。以前はなかったように思う。近付くと、シルバーアクセサリーがこれでもかと並んでいた。販売員はエプロン姿で、このデパートの制服は着ていない。場所を借りているだけのようだ。
 覗き込むと、それらはどうやら手作りらしい事が窺えた。
(へえ…)
 女物から男物まで揃っている。バングル、リング、ピアス、チェーンとトップ。そういえば、この前家族で出かけた時にシルバーリングをなくしてしまっていたと思い出す。邪魔になって外して、それきり行方不明だ。
(…まあ、別にいいか)
 しばらくあれこれと手に取ってみたものの、リングはどうせまたすぐになくしそうだと思い直す。値段としては安い、だが今日は既に雨竜に三万使っている。
「……くろさき、」
 小さな呼び声に、一護は耳を疑った。
 非常に言い辛そうに、困ったように、雨竜が大荷物でそこに立っていた。ご主人様と言わなかったのは正解だ、目の前に店員がひとりいるのだから。
「…これ、あの…ありがとう…」
 ございます、を辛うじて飲み込んで、雨竜は財布を一護に差し出す。
 その右手に───。
 十字架が見えた。
 ケルト十字というヤツだ、と思わず一護は手を伸ばす。
「お前、こんなのしてたっけ?」
「これは初期装…び、…あの、始めから…」
「…そうだっけ」
 頑張っているなあと一護は内心苦笑する。
 そうだ、と一護は目の前の細身のリングに手を伸ばした。あからさまに女物だが、雨竜の白く形の良い指には合いそうだ。
「…え?」
 戸惑う雨竜の指に、シンプルなそのリングを嵌める。中指には入らなかったので、薬指だ。
「へー、やっぱお前、細いの合うな」
「あの…」
 手首にある銀色の細いチェーンと十字架、単純に合うと思う。
「スイマセン、これ下さい」
 一護は目の前でやり取りを見ていた店員に声をかける。女性店員は愛想良く「1,000円です」と告げた。
「つけて帰るんで、値札切って下さい」
 店員がリングから値札を切り離す間に、ウォレットチェーンに財布を繋ぎ、ポケットに突っ込む。雨竜は店員の持つリングと一護の顔とを交互に見た。
「ありがとうございましたぁ」
 リングを受け取った一護は、その場で雨竜の右手に付けてやる。行くぞと言うと、雨竜は小さく頷いて、一護の隣へ陣取った。

 デパートを出て大通りを抜け、川沿いの道に出る。人影がまばらになったところで、雨竜が「ご主人様」と声をかけてきた。視線を向けると、雨竜はしきりに自分の右手、シルバーリングを気にしている。
「これは、予定にはなかったものでは…」
「ああ? そうだな」
「…あの…これも、ご主人様のご都合、という事なのでしょうか…?」
「…」
 一昨日の夕食の席で出た服の話で、雨竜の都合ではなくこちらの都合なのだというような事を言った、一護はそれを思い出す。
(…気にすんなって言ったつもりだったんだけど)
「別に、似合うかと思って…」
 一護は思ったままを答えてやる。
「初期装備って言ったか? そのブレス。そーゆーのしてるんだったら、おかしくねえだろ」
「…これは、虚攻撃の際必要なアクセサリーで…」
「へー。それで『初期装備』か」
「はい」
 幾分長めなあの白い服を着ている時には分からなかった。
 不意に、雨竜が立ち止まった。
 その止まり方が異質で、一護は警戒する。
「…どうした?」
「アラートです。虚が出ます」
 立ち止まった時のままどこも見ていなかった黒い瞳が一護に向けられた。
 と思った瞬間、一護の体は宙に浮いた───。
 正確には、雨竜に抱えられ土手を降りていた。声など出る余裕すらない。
 どんなスピードだ。
 少なくとも、人間が人間を抱えて走るスピードではない。土手を駆け降り、橋の下へ隠れるようにしてようやく雨竜は止まる。荷物と一緒に放り出されながら、鞄を握る自分の手を見て、良く落とさなかったものだなと感心する。
 雨竜は庇うように一護に背を向けて、距離を取る。
 見ているのであろう先を追うが、そこには真昼の空があるばかりだ。だが雨竜の警戒は、一護にも伝わっていた。周囲に人の気配はない。さあさあと流れる川音すら耳障りだ。
 耳障り───。
 そう思った瞬間だった。
 みしり、と遠く空が軋んだ。
 ぱきり、と。
 天井に描かれた空に、運悪く罅が入ったような、そんな事を一護は思った。
 手だ。
 空の罅の向こうから、枯れた手が───。
 こちら側に出ようと、罅割れを広げていた。
 奇妙な頭が覗いた。
 頭に比べると随分小さな肩が、もがきながら空へ這い出てきた。
 歌舞伎役者の隈取りのような顔。
 ずるり、と這い出すと、空はまた罅を隠して素知らぬ顔をする。
 青い空だ。
 雲は高い。
 秋の空。
 そこに、隈取りの怪物。
 酷く不釣り合いだ、と可笑しくなる程の、
 あれが『虚』か。
 獣のようで、人のようにも。
 ぎしり、とその面がこちらを向く。
 ぎくり、と一護は緊張する。
 その面の奥の目が、確かにこちらを見ていた、一護を見ていた。雨竜は間に立ったまま微動だにしない。川面をさらう風に、ただその黒髪が揺れる。
「…バランサー、間に合いません」
「え」
「アプリケーション『滅却師』、起動します」
 すらり、と雨竜は左半身を引き、右手を前方へ伸ばした。
 音もなく十字架が浮く。
 次の瞬間、雨竜の右手に弓が在った。
 その弓は、確かな形ではなかったのかも知れない。だが一護はそれを弓と認識した。雨竜の左手が矢を番えるように、伸ばした右手に添えられる。ケルト十字のリングを引いて、ああやはりこれは弓なのだと一護は思った。
「攻撃モードOK、目標をロック」
 あんなに遠い空にありながら、その息遣いは酷く近く感じられる気がして、一護は知らず身震いする。
「現在の最大出力30%、撃破可能範囲と認識」
 雨竜は見えない弦を引き絞る。
 虚の面は笑っている───ように見えた。
 近付いて。
 近付いてくる。
「攻撃を実行します」
 雨竜の左手が、矢を放った。
 それはまるで生きた稲妻で、およそ物理的にはありえない奇妙な放物線を描いて、しかし虚の頭に   命中した。
 ざら、と、砂が風にさらわれるように、砕けた虚が消えてゆく。
「…目標の消滅を確認。アラート解除、アプリケーション『滅却師』終了します」
 終了の宣言と共に雨竜の右手から弓が消え、手首の十字架がチャリ、と小さな音を立てた。
 今更ながら、どっと汗が噴き出す。自分が身動きすらままならなかった事実を、そこで初めて知った。
「…初めて見た、あんな奴…」
「私もです」
「…え?」
「虚についてのデータはありますが、実際にこの目で見るのは初めてでした」
 無表情な雨竜が、振り返りながら告白する。
 そうだ、雨竜は製品で、商品で、出荷されて一護の元にやってきた。虚についてのデータは持っていても、雨竜本体としては初体験だったという訳だ。
「…じゃ、攻撃したのも初めてか」
「はい」
「…スゲエな。良くやった…」
「はい。ご主人様をお護りする事が出来ました」
 放り出されたままの状態で座り込む一護に歩み寄る雨竜は、ほんの少し誇らしげに見えた。
「ご主人様、申し訳ございません」
「は?」
「後ろを…。茶渡泰虎様です」
「えッ」
 弾かれたように振り返ると、ほんの数十メートル向こうに茶渡が立っていた。
「見られる可能性がある事を知りながら攻撃しました。申し訳ございません」
 何という事だ、今の今まで気付かなかった。
 呆然と、いや大抵は呆としているように見えるのだが、茶渡がこちらを見ている。
「あの方も遊子様と同程度の霊力をお持ちのようですが…虚が見えていたかは不明です。どうなさいますか?」
「ど…どうって…」
 虚が見えていたか分からない?
 霊力が高くなければ見えないもの、という事か。それもそうだ、あんなものが空に現れて、皆が皆見えていたらパニックだ。
「もし見えていたのなら、説明の必要が」
「…だよな」
 振り向いた一護に近付いてくる茶渡の、その顔から心情を推し量る事は難しい。
「…よー、チャド。ひとりか?」
「…ム」
 片手を挙げれば、佐渡も同様に答える。
 佐渡は一護を見て、雨竜を見て、そして空を見る。
「…」
 あれが見えていたのか、いなかったのか?
「どうかしたか? なんか見えんのか」
「…いや」
 少し頭が動かされる。一護はそれを、分かっていないのだと判断した。
「悪ィな、チャド。俺たちこれから帰って昼メシ…。っと、コイツ初対面だよな!」
 ようやくそこで立ち上がって、雨竜の肩に手を置き茶渡と向かい合わせる。
「石田雨竜、だ。えーと…アレだ、いとこで……、ちょっと事情があって、ウチに下宿してる。石田、こいつがチャド。茶渡泰虎ってゆうんだけど」
 表情の乏しい者同士を引き合わせて、なんだか一護は引き攣り気味だ。すると、雨竜が助け舟を出すように口を開いた。
「…初めまして。あなたのお話は彼から良く伺っています」
「…」
 雨竜にしては上出来───と言うべきだろう。
 もう少し何とかならないのか、と思わなくもなかったが、茶渡がぺこりと「宜しく」をするので結果オーライだ。何とか、また来週学校でと別れを告げる事に成功した。茶渡はと言えば、何かがおかしいようなという風に首を少々傾げるのだが、その原因はとうとう分からなかったようで、川原を後にする。その様子を横目に確認しながら、一護も帰途に就いた。

「…あれ、お兄ちゃん? お帰りなさい、早かったねー」
「ただいま。あー腹減った…」
「えッ食べてくるんじゃなかったの?」
「…何」
 色々と疲れて帰宅した一護に、遊子の無情な科白が突き刺さる。
「ないよ、お昼。お父さんが、今日はお兄ちゃん遅くなるってゆうから…もう食べちゃった」
「……」
 一護はすぐにホテル云々の話を思い出し、不機嫌の絶頂となった。だが、心優しい妹は「簡単で良ければすぐ作るよ」と笑う。
「悪ィな、遊子。着替えてくる」
「おっけー」
 二階へ上がり自室のドアを開けると、買った服を整理している筈の雨竜が、フローリングに正座したまま無表情に右手を眺めていた。
「…何やってんだ?」
「…指輪が」
「指輪?」
 ただ見つめて、振り向きもせず呟く。
 覗き込むと、雨竜の掌の中、買ったばかりのシルバーリングが見事に焼け焦げていた。
「うわ、何だよそれ。どうした?」
「…霊子兵装の負荷に…耐えられなかったのだと思います」
「れいしへいそう? …さっきの、弓みたいなやつ?」
「…申し訳ございません」
 俯いたままの雨竜は、そうしているとまるでとてつもないショックを受けているように見えて、一護は少々可笑しくなる。
「まあ、安物だから気にすんな。指輪が気に入ったならまた今度買ってやるから」
「…申し訳ございません」
「いいから…とにかくジャケットぐらい脱げ。そんで買ったもの片付けろ」
「…了解しました」
 遊子や夏梨にするように頭をくしゃりと撫でてやって、それから一護も制服を脱ぐ。部屋着のトレーナーを頭から被りながら様子を見ていると、ようやくといった風に雨竜は服からタグを外し始めた。
 その指に、黒くなったシルバーリングが嵌められている。
「…おい、捨てていいんだぜ、それ」
「はい」
 一護が何を指して言ったのか雨竜は理解しているようだ、すぐに返事がある。だが雨竜は、それから黙々と服に手を伸ばすだけで、捨てようとする気配がない。
「捨てねえのか?」
「はい」
「…捨てろって」
「嫌です」
 またもやパソコンに拒否されてしまった一護だ。
 一護としては、醜く焼け焦げ、僅かとは言え変形すらしているリングなんてゴミでしかない。それをわざわざ形の良い指にさせておくなんて、彼のユーザーとしてはみっともないな、と柄にもなく思ったりもする。
 しかし、無理矢理捨てさせようとしてまた睨まれるのも気分が良くない。一護は「ふうん」と言って、階下へ降りる事にした。
 台所では、遊子がラーメンを茹でていた。
「ラーメンでゴメンねー。いちお、野菜炒めはあるから」
「ああ、いーよ。サンキュー」
「はい、どうぞー」
 遊子は笑顔で、茹で上がったラーメンの上に野菜炒めを乗せて食卓へ置く。小学四年生にしてこの手際だ。
 時計を見れば、もうすぐ14時という時間だった。父親の差し金で遅れた昼食、しかし怒るよりも先に一護は食べ始めた。
「そーいや親父は?」
「町内会だって。夜回りの順番決めるとかって言ってたよ」
 そう言えば、そろそろ『火の用心』の季節だ。
 食べ始めてしまえば、何となく怒りも引いてゆく。ラーメンに罪はないのだ。
「ねーねー、どんなの買ったの?」
「どんなって…」
「一回洗うから、値札とったらカゴ入れといてね」
「…おう」
 いくら吊るしの服とは言え、着るのは人間ではなくパソコンなのだから、別に洗わなくてもいいと一護は思っていた。が、こういった場面で遊子に逆らうのは得策ではない事も知っている。麺を啜りながら、一護は曖昧に頷いた。
「…」
 リングを見つめる雨竜を思い浮かべる。
 まるで表情がない癖に、感情だってないと言い張る癖に、酷く落ち込んでいるように見えた。
 次いで、自分を庇うように立つ後ろ姿を思い浮かべる。
 その格好は自分の服の後ろ姿で、しかし揺れる黒髪が、その後ろ姿が自分ではない事を告げていた。そう、自分は───川原に荷物と一緒に座り込んで、立ち上がる事すらしなかったのだ。
 そして、隈取りの怪物を思い浮かべる。
 虚と呼ばれるあの悪霊の顔。暗い眼窩の奥で瞳が動いた。あの顔は、面なのか。面の下では、面と同じように薄く笑っていたのだろうか。そしてあの場に雨竜がいなかったら、自分は死んでいたのだろうか?
(…食ってる時に考える事じゃねえな…)
 あんなものに今まで出会った事がなかったのは、単なる偶然、僥倖と言うべきものだったのだろうか。
 目を遣れば、台所に立つ遊子の後ろ姿。
 日常が日常でなくなる事は簡単に起こり得るのだと、一護は知っていた筈だったけれど。
「…遊子」
 ごちそうさまと言って立ち上がる。雨竜がいれば、食べ終わる頃を見計らってお茶が出てくるのだが、たまには自分で煎れてもいいだろう。
「足りたー?」
「ああ」
 実際のところは、取り敢えず「食べた」という認識はあるけれど、足りたかどうかまで気が回っていなかった。
 恐怖というものに気付かなかった自分が恐い。
 虚が現れて、こちらを見て、近付いてくるのが分かった。それなのに、自分が動けなかった事にすら気付かなかったのだ。それが『恐怖』だと、気付かなかったのだ。竦んでいたという認識すらなかった。今こうして思い返してみても、直接的な恐怖は感じない。間に雨竜が立っていたからだとしても───。
 間抜けと言うより他はない。
(…覚えとかねえとなあ、あの感じ…)
 過ぎてしまえば現実感は希薄になる。
 しかも、帰って来てリングの件で落ち込む雨竜など見てしまったものだから、余計に虚への意識は拡散してしまう。
(コーヒー…緑茶がいいかな)
 急須はどこだと台所に入った時、何やら階段を駆け降りる騒々しい足音が聞こえてきた。
「一兄ッ」
「何だ、お前二階にいたのかよ」
 こうなると、もう一護の頭から虚の事は零れ落ちる。
 夏梨はフフフと笑って兄を小突く。
「一兄、やるじゃん」
「…何を?」
 遅れて、雨竜がやってくる。夏梨はその左手を掴むと、一護の目の前に突き付けた。
「…あれ?」
 その指に、リングが在った。
 だが、先程買った時のように銀色をしている。形が少々いびつになってはいるものの、輝きとしては、もしかしたら買った時以上かも知れない。
「どうしたんだ? これ、すっげえ焼けてたんだぜ」
「硫化してただけだよ。銀磨きで磨いたの!」
「何だよ、磨けばいいだけだったのか」
 なら捨てさせなくて良かった。
 無感動に、されるがままになっていた雨竜が食卓の様子を見て「お茶をお煎れしますか」と口を開いた。
「ああ…緑茶で頼む」
 自分でやらなくて済んでしまい、一護は再度食卓へ戻った。夏梨も、座りながら「あたし紅茶」と雨竜に声をかける。
「それにしても、一兄が、ねエ~…」
「何だよ」
「雨竜に、指輪とはねェ~」
「…」
 含みのある視線に、一護は急に居心地が悪くなる。
「え、アレお兄ちゃんが買ったの?」
「わ、悪いかよ…?」
「悪くないよう! ちょっと意外だっただけで~」
「…」
 遊子は母親に似た笑顔で、夏梨と並んで座った。
 そこへ雨竜が、まず一護の前に湯飲みを置く。そして台所に戻って、今度は紅茶を準備するのを目で追う。時折見える細い銀色、やはり雨竜には良く合うと思う。
「指輪なんてさあ」
 食卓に頬杖を付いて、夏梨は兄の顔を鋭く見上げた。
「独占欲丸出しだよなー、誰が見ても」
「ど…く…」
 せんよく、と最後まで復唱しないうちに一護は真っ白になった。口を開けたまま、そう言えば一昨日も父親に同じ事を言われたかなという記憶がフラッシュバックする。
「そこまでしてやるのに、何でメモリー増設はダメな訳?」
「な…ッ」
「同じ事じゃん。つか、無駄なものは与えるのに必要なものは与えないって、どーゆー事よ」
 ろくに言い返せもしないうちに、畳み掛けるような夏梨の科白に混乱する一護だ。
「性能を充分に発揮させて貰えないパソコンなんて、不幸だと思わない訳?」
「いや、それは…」
「そーゆーの『宝の持ち腐れ』ってゆーの、知ってる? 一兄」
「だ、だから…ッ」
 夏梨はまるで容赦なしだ。
 しかも、そこへ遊子までが困ったような目で兄を諭そうと口を出す。
「雨竜くん、可哀想だよ…。お兄ちゃんの為に一生懸命なのに…」
「ゆ、ゆず…」
 そこへ、当の雨竜が遠慮がちに、しかし無表情に紅茶を運んでくる。ソーサーを置き、カップを置くその手を一護は見つめた。
 細い銀の指輪。
 やはり、メンズのボリュームのあるものよりこちらの方が合う、と確信する。
「お…俺はただ、たまたまレジの近くで、売ってんの見て…」
「ふむふむ。それで?」
「こ、こいつの手には、こういう細いの、合うかと思っただけ…で…」
「ほうほう。それで?」
「…や、安かったしよ…」
 手首に銀のブレスがある事に気付かなければ、思い付かなかったかも知れない。服代を抑えられたので、少し気が大きくなっていたのかも知れない。だが、そういう言い訳をその時には思い出せなかった。
「べ、別にど、独占欲とか、そーゆーんじゃねェって…」
「あのね一兄」
 一護の言い訳を面白そうに聞いていた夏梨だったが、不意に厳しい顔つきになる。尋問の強弱硬軟を操る術に長けているなと、一護は脳裏でそんな事を思った。
「じゃあ聞くけど、一兄今まで人に物あげた事ある?」
「…え?」
「『ああこーゆーのあの人に合うよね』って、自分で選んで、自分でお金出して、何か人にあげた事あるかって尋いてんの!」
「…」
 一護は二度三度まばたく。
 …ない。
 嫌な汗が、顔といい首といい背中といい、ところ構わず流れ落ちる。
「ないでしょ。所詮あたしたちにバレンタインのお返しすらくれない人だよ、一兄は」
「な…ッ! ち、チョコなんてお前ら、一緒んなって食ってんだろ!」
「へー。じゃあ時々現れる物好きなコには、ちゃんとお返ししてた訳?」
「…」
 していない。
 いや、貰うのは常に『義理』だとかで、最初からお返しはいらないわよと宣言されるシロモノばかりなのだ。チョコレートは嫌いじゃないし、どちらかと言えば好きだし、ありがたく…貰っていた。
 そう、お返ししていない、事実は事実。
「ホラ、黙っちゃった。良かったね雨竜、あんたは特別だってさ」
「…はい」
 一生懸命他のケースを思い出そうとしてみるが、やはり一護には人に物をやるという経験は、ないようだ。
 そんなバカな、と少々頭がクラクラする。砂糖のポットとクリーマーを用意する雨竜の手。特別と言われても顔色ひとつ変えないパソコンの───。
(…何?)
 細い銀のリングは、白くすらりと形の良い雨竜の薬指に在る。
「…石田」
「はい」
「……何で左手なんだ」
 シルバーリングは、雨竜の左手にあった。
 サイズは確かに、薬指のものを買った。たまたま手に取ったものが、そのサイズだったというだけではある。
 だが左手にしたら、左手の薬指にしたら、それは。
「夏梨様が、右手にブレスレットがあるなら左手にした方がバランスが良いと」
「…夏梨」
 じっとりと睨み付けるが、夏梨の方は涼しい顔だ。寧ろ、何を今更気付いたフリをとでも言いそうな。
「だって、そのブレス右じゃないとダメってゆうからさ」
 この場に───。
 父親がいなくて良かった。本当に良かった。一護は心の底からそう思う。
 雨竜の手首を掴むとリングを引き抜き、右手の薬指に嵌め直す。
「いいか、石田。右だ。左にするなら、捨てるぞ」
「了解しました」
 雨竜は何の感慨もないように、適切な返事をした。
「一兄、了見狭いね。嫁入りしたようなもんなのに」
「な…ッこ、こいつ男だぞ!? よ、嫁って…」
「だッから、パソコンに性別はないっての! 何いちいち動揺してる訳? いい加減飽きるよそのリアクション」
「…」
 分かっている。
 パソコンに性別などあってたまるか。一護にだってそれはもう良く分かっているし、そうでなくては困るし、逃げ場もなくなってしまう。
 だが、外見は男なのだ。
 しっかりハッキリ、男、なのだ。
 父親の言う通り、それを猛烈に気にしていると認めよう。
 この壁は、厚いし高い。
 しかも、出来れば乗り越えたくない壁だった。
「…ご主人様」
 夏梨の攻撃に思わず沈黙した一護に、不意に雨竜が話しかけてくる。
「次に虚が出た際には、これは外して攻撃します」
「…」
 助け舟のつもり───だろうか?
「大事にします」
「…別に、そんなもん…」
 雨竜は雨竜なりに、その人工知能で考えて、虚以外の場面でも一護を助けようとしている。茶渡と対面した時もそうだったなと思って、何となく座りの悪い一護だ。
「気に入ったなら、また買ってやるって、言っただろ…」
 そう言ってしまってから、双子の視線にはっと気付く。
「…」
 今度は夏梨は何も言わない。
 何も言わず、ただ意地の悪い笑顔で一護を見つめるだけだ。それが最高に、居辛かった。お兄ちゃんホントに雨竜くんは特別なんだねえと遊子が呟くのを耳にして、どうにもいたたまれなくなった一護は、とうとうキッチンを、飛び出した。
「…青いねえ、一兄…。青い春だねえ…」
「ええ、今は秋だよう、夏梨ちゃん」
 お茶には手も付けていなかったが、そんな事までは全く気の回らない一護だった。

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