バッテリー

 

  バッテリー

 
 バッテリー残量が30%を切りました、と告げられたのは『雨竜』が来てから二週間程過ぎた頃の事だった。
『80%で出荷で…結構持つんだなー』
『基本動作しかしておりませんから』
『…』
 虚攻撃にはメモリーも霊力も大量に消費するようで、この二週間で一度だけ行われたそれで一気に目減りしたらしい。一度アプリケーションを使った事をパソコンの雨竜が忘れている筈はないだろうに、この言い草だ。もしかして嫌味のつもりだろうかと疑いたくもなる。
『で…霊力チャージって、どうやるんだよ』
『第1スロットのコネクターから直接お送り下さい』
『…』
 分からない。
『…人間で言うと、その第1スロットって、どこにあるって…?』
『口です』
『…』
 口?
『…ぐ…具体的に、やり方を…言え…』
『口付けを』
『く───』
 口付け?
 一瞬遅れて、キスをしろと言われている事に気付いた。
 そして、今───。
 フローリングに正座して目を閉じる雨竜を前に、一護は殆ど硬直状態に陥っているという訳だった。

(…キス?)
 正座する膝に行儀良く置かれた手には、一護が買い与えたシルバーリング。白いシャツに、一護のジーンズ。黒いつややかな髪、閉じられた瞳、椅子に腰掛ける一護を見上げる角度。
 キスだって?
 それがどうして霊力のチャージになるのか、一護にはサッパリ訳が分からない。分からないが、目の前で雨竜は一護のキスを待っている。どうしようと思いながら、一護は立ち上がった。
 椅子が一護の体重から解放される小さな音にすらぎくりとする。雨竜は、しかしおとなしく、身動きひとつせず待っている。
 その黒い瞳は、隠されたまま。
 一護は、椅子から立ち上がった状態から、どうにも動けなかった。立ち上がった癖に一向にチャージを始めないオーナーに、雨竜はその瞼を上げた。
「…どうかなさいましたか?」
「…」
 立ち上がって更に位置の高くなった顔を見上げて、雨竜は僅かに首を傾げた。
「…ッ、や・あのさ…」
「はい」
「ええと、だな…、どーゆー…仕組みな訳?」
「仕組み」
 きょとんとして(一護にはそう見えたのだ)復唱する。
 何故キスで霊力のチャージという事になるのか? いや、普通の人間で好きな人からキスして貰えたら活力になるよと言われる方が余程信憑性がある。
「…霊気は、体から染み出るようにその人間の周囲に拡散してゆきます。その状態の霊気を私のバッテリーに動力源として採取する事は、事実上不可能です」
 まるで体臭のような説明だ。
「発散される前の状態でお分け頂くには、経口が合理的…という事だと」
「…つまり口移しで流し込めって事か?」
「はい」
 そんな説明を求められる事は、雨竜にとっても想定外だったようだ。
 一護も理屈は何となく分かったが、しかし疑問は残る。キス、つまり口移しで───霊力とやらは自動的に流れ出すものなのか? それとも一護の側で何かをどうにかしなければならないのか?
「俺は───お前に、キ…キスするだけ、でいいのか…?」
「はい」
「つか…ほ・他に方法って、ねえのか…?」
 往生際悪く、一護は足掻いた。
「チャージの方法は他には…。ですが、霊力の高い方でしたらご主人様以外でも…受け付ける事は可能です」
「…俺以外…つーと…」
「夏梨様でしたら、お分け頂くには充分な霊力をお持ちです」
「…」
 夏梨?
 ざっと血の気が引く。
 そういえば、一護が雨竜を手放すなら夏梨に与えると───そういう話だった事を思い出す。
 しかし、しかし。
 一護は引いた血の気が一瞬にして頭のてっぺんに戻ってくるのを感じた。何故なら、それは夏梨が雨竜とキスをするという事に他ならないからだ!
「だ、駄目だ、それはッ!」
「…はい」
 一瞬ウッカリ想像してしまって、キッパリ否定する。
 雨竜は不可解な様子で頷くが、彼としてはチャージして貰えるのなら誰が相手でも良いのだろうか? しかし、この事情を知らない人間に雨竜がキスを迫ったら、とんでもない勘違いを巻き起こす事になるだろう。
「わ…分かった。俺が悪かった。チャージは俺がする」
「はい」
 キスぐらい、何でもねェ。
 自分にそう言い聞かせ、呪文のように何度も繰り返す。しかし実際は自ら反復するというよりも、呪いのようにぐるぐると一護の頭を駆け巡っていたと言う方が正しかった。
 キスぐらい。
 口を合わせるだけじゃねえか。
 しかも相手は感情のある人間ではなく、パソコンだ。一護をオーナーとする、一護のパソコンが相手なのだ。人形やぬいぐるみにキスをするようなものだ。いや、人形やぬいぐるみにキスするような趣味は断じて持っていないのだが。
「…」
 雨竜は、じっと一護を見上げている。
 異常なまでに緊張している事には、一護自身も気付いていた。嫌な汗ばかりが出てくる。だからこそ「これぐらい何でもない事だ」と思い込もうとしているのだ。メモリーを増設しろと言われている訳でもない。
 一護は決心が固まらないまま、しかしもう逃げられないという強迫観念に、座る雨竜の前に膝を付いた。
(キス、ぐらい…ッ)
 何をそんなに緊張する事があるだろう?
 自分でも笑える程に心臓が早い。今顔が赤いというか真っ赤だという自覚もある。これではまるで、恋する相手を目の前にしているようだ。雨竜の顔すらまともに見られない。
(…畜生ッ)
 ギリギリと歯噛みして、一護は雨竜の肩を両手で掴んだ。心臓が早すぎて、その手すら震える。
 油を差した方がいいんじゃなかろうかという程に軋みを上げる首を、無理矢理動かす。察して、雨竜がゆっくり、目を閉じた。
(…ッ!)
 クラクラする。
 目を閉じた雨竜を正面から、至近距離で見てしまった。伏せられた長めの睫、一護に合わせて心持ち上げられた顎。
 キスを待つ顔。
 どう見ても、男性の。
(こ…ッ、これは男じゃないッ!)
 女性でもないが男性でもない! と一護はひたすら念じ続ける。
(つか、人間でもねェ!)
 端整な人工物なのだ。たとえ掴んだ肩から雨竜の体温が伝わってきていても、これは正真正銘パソコンなのだ。
(だから、数には入らねえ!)
 大して気にはしていなかったが、女性経験皆無の一護は当然、キスの経験もない。しかし、気にしていないとは言えファーストキッスはパソコンです、などという事態を認める訳にもいかなかったのだ。
(…よし)
 ようやく覚悟が決まった。
 歯を食いしばり、じりじりと顔を近付け───。
 そっと、唇を押し付けた。
「…ッ」
 その柔らかさに驚いて、慌てて離れる。
 時間にしたらほんの一、二秒で、雨竜は困ったように、いまだ己の肩を掴んだままのオーナーを見上げた。
「あ…あの…」
 一護の動揺が感染したのか、雨竜まで戸惑ったような表情になる。一護には、何故かそれがほんのり赤らんでいるようにも見えて、弾かれたように手を離した。
「ご主人様…」
 何やら無性に恥ずかしくなる。
 柔らかな唇、皮膚の下の体温。押し付けるだけの稚拙なキスに、何をそんなに動転する必要があったのか?
「…せ、接続を、して…頂かないと…」
「接続…?」
 接続しないと、霊力のチャージにはならないらしい。
「はい、あの…、コネクターに…」
 コネクター?
 第1スロットのコネクター?
 第1スロットが口ならば、コネクターは。
「…や、よく分かんねえ…。何?」
 雨竜は俯いた。
 舌を接触させて下さい、か細い声が聞こえた。
 一護は気を失いかけた。
「フザケんな───!!!」
 辛うじて意識を引き戻して、一護は腹の底から怒鳴り付けた。頭に血が昇ったまま同時に青ざめているような、おかしな状態に陥る一護だ。
 一護はキスすればいいだけなのかと問い、雨竜ははいと答えた筈だ。とすれば、ただ唇を合わせただけの一護がすぐに離れていなければ、雨竜の方が舌を───いや考えたくない。
 百歩譲って、キスは良しとしよう。
 だが、舌の接触を伴うキスなんて、キスなんて、一護にはショックが大きすぎる。
「…申し訳ございません。ですが、私は…その、ふざけている訳では……」
 ありません、と言う声は殆ど消え入る雨竜だ。膝の上の手をぎゅっと握りしめ、俯いているその顔は酷く狼狽して見える。
 コンピューターの癖に、と思うとそれすらも作為としか感じられなくなって、一護は苛立ちを止められない。
「何なんだよ、それはッ! そんな事最初に説明するもんだろ!? メモリーの事だって…知ってたらユーザー登録なんかする前に返品してたぜ!」
「…はい」
 一層俯いて、雨竜は小さく同意する。
 そうやって一護の怒りが落ち着くのを待ってでもいるのだろうか?
 この二週間程で、一護は大分雨竜に慣れたつもりだった。何しろ、ご主人様と呼ばれる事も些細な家事を手伝う姿も、一護としては相当の抵抗感があったのだ。家人の方はいち早く慣れてしまって、それがどうにも不思議だったが、一護のように当事者ではないせいだろうと思うようになっていた。
 一度虚が出た場面に出くわしたのだって、考えてみれば雨竜の買い物に出かけたせいだ。雨竜が黒崎家に来ていなければ、あの日買い物に出かける事もなく、一護は家にいた筈なのだ。
「大体…俺は頼んでねえんだよ、お前みたいなパソコンは」
「…はい」
「親父とおふくろが勝手に発注したんだ、俺には何の相談もなしにな! 知ってたら断固反対だったのによ!」
 そんな事情は、雨竜には関係ない事だ。
 だが、どうにも吐き出さずにはいられなかった。一体母親は、何故こんな非道徳的なパソコンを一護のボディガードにしたのだろう? 父親の方はあからさまに面白がっているようだが、あの母親までそんな理由で発注したとは思えない、思いたくない。そもそも、始めは母親用だった筈なのだ。
 雨竜はじっと一護の叱責に耐えている。
 その膝の上の左手が、右手を覆う。
 更に言い募ろうとして、一護ははっとした。
 雨竜は指輪を───隠したのだ。
 一護が気紛れに買い与えたシルバーリング、それを取り上げられると思ったのだろうか? それともそれが一護の視界に入る事で、新たな怒りを買わない為か?
 一瞬にして、怒りが後悔にすり変わった。
 気紛れとは言え、パソコンにとって不要なものを買い与えたのは誰でもない、一護本人だ。あまつさえ、気に入ったならまた買ってやるとまで言った。
 これでは雨竜が『自分は受け入れられた』と思っても無理はない。一護は盛大に溜め息をついた。
 完全に八つ当たりだった。
 一護がこの場面で怒っていいのは、チャージ方法が事前に詳しく伝えられていなかった事だけだ。頭をがしがしと引っ掻き回して、一護はボリュームを落とした声で謝った。
「…悪ィ。今のは…八つ当たりだ。お前には、関係ねえよな…そんな事は」
 コンピューター相手に謝るというのも奇妙だが、悪いと思った事は事実だ。
 雨竜は俯いたまま、いいえと小さく首を振った。
 その時、階段を昇ってくる足音が聞こえて一護はぎくりとする。一兄、という声と共に、夏梨が部屋のドアを開けた。
「…何してんの?」
「え、いや…別に」
「夕飯の準備、もう少しかかりそうだから先にフロ使ったらって言ってるけど」
「…おう」
 いいタイミングだ、と一護は息をついた。
 色々と頭を冷やすには丁度いい。
 振り返って雨竜を見ると、しんと正座したまま、俯いたまま。一護は着替えを箪笥から出すと、雨竜を残して部屋を出た。
 
「…今、一兄の声、下まで聞こえたんだけど」
「はい…」
「何かあった訳?」
「…いいえ」
 一護の部屋の入り口で、立ったまま夏梨は俯く雨竜を見下ろした。兄が階下へ降りた事を充分確認してからの問いかけだ。
 しかし、いいえと答えたきりやはり俯いたままの雨竜に、夏梨は軽い溜め息を吐く。
「何もなくて、パソコンのあんたがヘコむ?」
「…申し訳ございません」
 声には既に感情らしきものは含まれていない。
 夏梨はやれやれと思う。
「一兄に口止めされてる?」
「…いいえ」
「じゃあ言ってみな」
 雨竜はそこでようやく顔を上げ、部屋に入ってきた夏梨を見た。どんな泣きそうな顔をしているかと思えば、表情は何もない。人形の方がまだ愛想があるというものだ。
(一兄の前では、よく困った顔とか、するのにね)
 笑ったり怒ったりという顔は、夏梨は見た事がない。ただ、兄と一緒にいる時の雨竜は時折、困ったような表情を見せるのだ。普段が無表情なので、それはとても珍しい。
「バッテリーチャージの方法について…説明不足だった事を注意されました」
「…はあ?」
 バッテリーチャージ。
 霊力が動力源という事は、夏梨も聞き及んでいる。その、霊力のチャージという事だ。
「何? 説明不足って」
「…」
「雨竜」
「はい」
 俯きかけるパソコンを促す。仕方なさそうに返事をするのを見て、夏梨は今自分が雨竜を困らせているのだと知って少々感動する。
(お・面白い…!)
「一兄にとって、チャージの方法に問題があったって事だな? そんで、お前はチャージを…受けてない?」
「…はい」
「一兄がイヤがるような事だった訳か」
 雨竜は、それと分かる程にうなだれた。人間で言えば、ハッキリと『落ち込んでるのね』とは分からない程度ではあるが、殆ど表現らしい表現をしないものにしては充分すぎる。
「…ご主人様は、性交渉を連想させる行為がお嫌いなのです」
「…あー」
 夏梨はポリポリと頭を掻いた。夏梨とて、もう小学四年生だ。具体的には分からなくても、性交渉と言われればそれとなく想像もつく。
「何てゆーか…まあ、一兄はデリケートだよね、そこらへん」
「…はい。メンタルの部分ですから、私には…対処方法がございません」
 雨竜は回りくどい言い方をしているが、つまりえっちな事だろ、と夏梨は理解する。
 夏梨の見る限り、兄一護の性的嗜好は極一般的と言って間違いないだろう。実際に女のコがどうとか言う話はしないが、同性に対して性的な興味がない事だけはハッキリしている。本当の性別がないとは言え、男性型の雨竜を兄が持て余している様子も、夏梨にはよく分かる。でなければ、からかい甲斐もない。
 しかし、そんなものはどうせその内慣れるだろう、とも思っていた。
 それがこの状況という事は、夏梨の兄は、頑固なまでにノーマルなのか。それともただ単に頭が固いのか?
「ですが、最低限動力は確保しませんと…私がここにいる意義が失われます」
「…だよねえ」
 先程、階下まで聞こえてきた怒鳴り声を思い出す。
「バッテリー切れるとさ、…やっぱ動けなく…なるんだよね?」
 電池切れって事だよねと確認すれば、雨竜は少々俯けた頭で小さく頷く。
「…つまり…パソコンってより、等身大人形…みたいな?」
「はい」
「…それじゃ、意味ないよね、ホント…」
「はい…」
 一兄には何とかして貰わないと。
 実のところ、夏梨は雨竜を気に入っていた。一護が手放すなら夏梨のものになる、などとは全く知らされてはいない。だが、雨竜が自分のものだったらと考えた事なら、あった。それ位には、気に入っていたのだ。
「…チャージって、どうやるの」
「…」
 一護にそれを告げて怒鳴られた雨竜は、答えを一瞬躊躇した。だが、しばらく待つと雨竜は視線を手元に落としながらも、小さな声で答えた。
「口移しです」
「…口移し? キス…するって事?」
 申し訳なさそうに、雨竜は頷く。
 夏梨は、何やら拍子抜けしてしまった。
「何よ、キスもダメな訳、一兄は」
「いえ、あの…」
 父親が『大人になる』云々と言っていた、そういう話なのかと思っていたのだが。
 だが、雨竜は慌てて付け加える。
「舌を…接触させて頂かなくては、ならないのですが…。ご主人様に、それを上手く説明出来なくて…」
「…舌」
 さすがに夏梨もほんのり赤らんだ。
 噂に聞くディープキスというヤツだ。そりゃ一兄にはちとハードルが高かっただろうな、と夏梨は天井を仰ぐ。
「…他に、チャージの方法、ないの?」
 雨竜は弱々しく頭を振った。
 しかし、雨竜にとっては大問題だという事も夏梨には良く分かる。そして、それは兄にも良く分かっているのだろうとも思う。
「…バッテリーって、まだ余裕ある?」
「残量は29%です」
「んー…。それって、どれ位持つ訳さ」
「基本動作のみでしたら、あと十日程は」
 十日、か。
 兄には十日の内に覚悟を決めて貰う他はない。だが今までの経験から言えば、雨竜の言う『性交渉を連想させる行為』などは、周囲から説得するのは難しい。却って態度を硬化させてしまいかねない。
「…スリープ状態に入れば、霊力の消耗は五分の一に抑えられます」
「へえ…あんたにもスリープ機能なんてあるんだ」
 医院で会計などを手伝う夏梨は、受付にあるパソコンを時折スリープ状態にする。都合上、日中は電源を入れっ放しにしているが、使わない時にはスリープ状態にしておくと電力を食わないのだと父親に教えられていた。
「対『虚』のセンサーをオンにしたままですので、それ以上は抑えられませんが…」
「でも、スリープって、どこでする気? あのカンオケ?」
 壁に立て掛けられている柩を指し示す。
「…あれはシェルターです、夏梨様」
 いざという時にすぐに使えるよう、物置きや箪笥の下などに押し込む訳にもゆかず、結局一護の部屋に鎮座している。
「シェルターを使うとなりますと…場所を取りますので、お邪魔になるかと」
「…」
 じゃあどうすんのと夏梨が口を開きかけた時、階段を昇る足音に気付いた。響きの重さからすると、兄が戻ってきたようだ。
 ノックなしにドアが開いて、部屋の主がぎくりとした。
「な…何だよ。お前ずっと俺の部屋にいたのか?」
「ずっとって…一兄随分早いじゃん」
「シャワーしか使ってねえ」
「何だよ、せっかくあたしがフロ沸かしたのに」
 髪を拭きながら、一護は夏梨から雨竜へ視線を移す。あからさまに顰められるその顔を見て、夏梨は溜め息を隠せなかった。二人の、いや一人と一台の様子に一護の眉間が更に深くなる。
「…おい、夏梨。コイツと…何か変な事、喋ってねェだろうな…?」
「あーもーすっごい独占欲…」
「なッお・お前またそうゆう…」
「心配しなくても、雨竜が一兄に不利な事喋る訳ないでしょ。一兄のパソコンなんだから」
 お約束でからかってから、律儀に答える夏梨だ。
 兄は、それでも不審な様子だ。眉根を深く寄せたまま、雨竜を見下ろしている。雨竜は何でもない顔で、きちんと正座していた。
「あたしも先にフロ入ろっかなー」
 チャージの事に触れるのはやめておこう、兄が臍を曲げる確率の方が高い。夏梨はそう判断して雨竜に背を向けた。
 その時だった。
 不意に兄が緊張したように見えて、しかしその緊張が雨竜を警戒するものにしては酷く鋭い気がして、夏梨は振り返った。
 音もなく、雨竜が立ち上がっていた。
 目を見開き、ある方向を凝視していた。
「…何?」
 訳が分からなくて、だがピリピリと針を刺すような緊張が自分にも起こっている事だけは肌で感じる。
「…アラートか?」
「はい」
 兄の問いに、視線を動かす事もせず雨竜は答える。
 アラートって?
 雨竜の答えに、兄は背に夏梨を庇った。庇われて、どういう事なのか聞きたいのに夏梨は二人に声をかけられない。
 かけられる状況ではない。
 兄の腕に後ろから掴まって、夏梨は雨竜を見た。
 宙を見つめていた顔がこちらに向けられる。
 泣きそうに歪められているその顔を見て、夏梨には余計に訳が分からない。瞬時に視界から消えた雨竜、ごとりと音がして、あの柩が床に置かれたのだと分かったのは、自分がそこに兄ごと押し込まれてからだった。
「おい、石田ッ!」
 大きい柩とは言え、兄妹二人が入るには狭い。底は柔らかいマットレスのような感触、一瞬真っ暗になったかと思うと、内部照明が仄かに兄妹を照らし出す。
 お静かに、と言う雨竜の声は柩の中から聞こえてきた。どこかにスピーカーでも付いているのだろうか。
 私ではこのレベルの虚は撃退出来ません。
「どうすんだッ」
 やりすごします。
 霊力の高い人間が見当たらなければ、虚は去ります。
「…近いのか?」
 はい、この部屋に───。
 そこで雨竜の声は、轟音に掻き消された。夏梨はびくりとして兄にしがみつく。いつから始まったのか、震えが止まらない。兄は夏梨の体をしっかり抱いた。
 地を這うような巨大な音が、びりびりと体を震わせる。
 脳に突き刺さるようなけたたましい音が、きりきりと体を駆け巡る。
(何これ)
 極端な低音と極端な高音、人間が聞き取れるレンジの両端ギリギリの音が二重奏で、しかも大音量で谺していた。
 その音が、何事かを喋っているようにも聞こえる。
(…声?)
 あまりの音に、頭痛が起こっている事にすら気付けない。
 ドン、と衝撃を受けて柩が揺れる。
「石田…」
 お静かに───。
 冷静な声が柩の中に密やかに流れる。しかし、禍々しい叫びは柩の向こうで鳴り喚き続けている。何かが壁に当たる音が聞こえる。
 ガタン、と一際大きな衝撃が柩を襲った。
 柩に何かがぶつかったのだ、フローリングの上を少なからず滑る感覚があった。兄妹は、ただ狭い空間で声を立てないように歯を食いしばるのが精一杯だ。そしてその時、兄の部屋に行ったきり戻らない夏梨の様子を見に遊子がやってきた事など、柩の中の兄妹には知る由もなかった。
「な…なに…?」
 開けられたままのドアからそっと覗く遊子は、異様な空気を敏感に感じ取り、中に入る事はしない。
 柩の上に覆い被さるように倒れていた雨竜が、何事もなかったようにむくりと上体を起こし、立ち上がる。遊子に気付いていたのだろう、そのままドアまで歩み寄る。
「う…雨竜くん…? どうしたの…」
「遊子様」
 不安げに雨竜を見上げる遊子は、それでもその後ろにいるものは見えていない。
「何でもありません」
 空気は感じているらしいが、部屋の中で雄叫びを上げる虚に気付いていないのであれば、近付かなければ襲われる事はないだろうと雨竜は判断する。
「で・でも…怪我、してるよ…?」
「問題ありません。どうぞ、下で」
 お待ち下さい、という言葉は途切れた。
 虚の鋭い爪が、雨竜の背を抉ったのだ。遊子にそれは分からない。だが、見えない何かが雨竜を襲ったのだという事は、遊子にも理解出来た。
 雨竜が、倒れ込むふりを装って遊子を抱き込み、その小さな体を自分の下に隠す。少々ご辛抱下さいと小さく囁いて、雨竜は事切れたように身動きを全く止めてしまった。遊子はただならない空気に、雨竜と同様じっとして、口を噤んだ。
 
 どれ程の時間が経ったのだろう?
 一分、二分。
 或いは十分、二十分?
 緊張を強いられた精神に、時間の感覚が麻痺している。ようやく雨竜によって柩の蓋が取り払われた時、一護は部屋の蛍光灯の明るさに目を細めた。腕の中の夏梨は緊張に耐えられなかったのか、途中からぐったりとしたままだ。
「お兄ちゃん、夏梨ちゃん」
 起き上がれずにいると、心配そうな遊子が上から二人を覗き込んできた。
 肘を付いて、無理矢理起き上がる。
「夏梨」
 一緒に柩に入っていた妹は、意識はあるようで大儀そうに目を開けるが、起き上がる気力が失われているようだった。
 弱々しい様子で、けが、と呟く。
 一護が何だと聞き直すと、怪我、と聞き取る事が出来た。夏梨自身に怪我があるのかとぎくりとするが、その視線を追えば、雨竜が目に入る。遊子が、うんそうなのと困ったように雨竜を見た。
 一護からは、シャツの左肩の辺りが破れている事しか分からない。雨竜の方は、当然といえば当然なのだが、痛そうな顔も辛そうな顔もしてはいない。
「ベッドで休まれた方が」
 夏梨を見つめて、雨竜が言った。
 一護は夏梨を抱えて立ち上がると、隣の双子の部屋へ運んだ。
「一兄…、今の…あれが『ホロウ』?」
「ああ。…大丈夫か?」
「ん。ちょっと、頭痛いだけ」
 虚が現れる前に柩に避難させられたので、姿は見ていない筈だ。一護は少なからず、その事には感謝していた。あの隈取りの怪物と、こんな狭い部屋の中で顔を突き合わせるなんて、想像の範疇を超えている。夏梨が虚を見た事がないのなら、尚更ショックが大きかった事だろう。
 ベッドに小さな体を横たえると、夏梨はほっとしたように深く息を吐いた。
「…雨竜、いて良かったね」
「…そうだな」
「行きなよ。あたし、もう平気だし。雨竜ケガしてたじゃん」
 一護としては、雨竜より夏梨を心配している。
 だが夏梨は少し眠った方がいいのかも知れないと、一護は仕方なく頷いて立ち上がった。
 自分の部屋では───。
 遊子が半べそで雨竜に付き添っていた。雨竜はシャツを脱いだところで、一護はぎょっとする。
「お兄ちゃん」
 遊子が走り寄り、一護の腕を引いて雨竜の後ろへ連れてゆく。
「…ッ!」
 言葉が───出なかった。
 背中と左腕の皮膚が裂け、筋組織が覗いていた。血はないが、切り裂かれた皮膚には焼け爛れたような跡まである。
「雨竜くん、あたしを庇ったの」
 だが当の雨竜は全く頓着しない様子で、ベッドの下に押し込めたケースを取り出し、白いガムテープのようなものを手に取る。
「あたし、やる」
「…はい」
 遊子はテープを受け取ると、お兄ちゃん押さえててと傷口を示した。一護は少々、いやかなり蒼白となっていた。
「雨竜くん、ホントに痛くない…?」
「はい。痛覚はありません」
 ゆずが「こういう風に」と、開いた傷口を合わせてみせる。それを一護にしろと言っているのだ。
 一護はごくりと唾を飲み下すと、その皮膚に触れた。
 柔らかく、温かい。
 雨竜が身動きすれば、見えている筋肉も動く。
 気が遠くなりながらも、一護は切り裂かれた皮膚を押さえた。遊子は手早く、完全に傷口を覆うようにテープを貼ってゆく。まずは背中、そして左の肩口から上腕にかけて。
「…これでいいの?」
「はい。ありがとうございます」
 一護は密かに、ほっと息をついた。
 酷い。
 人間ならどうなっていただろうか。
 だが、怪我をしたのが雨竜で良かったとは、一護は思えなかった。目眩さえ起こる。
 これが、初期メモリーだけで護るという事だったのだ。
 一度目の虚を撃破出来たのは、初期メモリーの攻撃力の方があの虚より勝っていたお陰だ。
 二度目、今回の虚は、それより強かった。そういう場合には、雨竜はオーナーをシェルターに隠す事しか出来ないのだ。
「…石田」
「はい」
 一護がメモリー増設はしないと言ったあの時から、雨竜は一度もそれを要求しては来ない。増設の際に必要なものも、自ら捨てている。
 それは覚悟というものだろうか。
「…良くやった」
「はい」
 振り向いた雨竜は誇らしげに、ほんの少し笑っているようだった。
 そう、本来はオーナーを護るだけでいい筈なのだ。だが雨竜は一護と一緒に夏梨をもシェルターに隠し、後からやってきた遊子を護った。それは、褒めて然るべき事だった。
「ただ…ひとつ問題が」
「え?」
 一護の方へ体を向ける雨竜には、既に笑顔はない。今の怪我の事かと身構えると、しかし雨竜は深刻な顔でシャツに手を伸ばすのだ。
「…破れました」
「…だな」
「申し訳ございません…」
「…いや」
 どうも、雨竜の中の優先順位がよく見えない。拍子抜けして、一護は笑って、また買ってやると言った。

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